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【 美ら島沖縄 ver.3 】 『 宮古諸島 』を散策しましょう。 本編では宮古諸島を散策します。 ◇宮古諸島の帰属市町村 宮古島市 多良間村の1市・1村がある。 総面積225.65km²、総人口約5万6千人 以前は1市3町2村であったが 平成17年10月の市町村合併をもって1市1村となった。 〓宮古諸島〓 沖縄本島の南西方約300km 石垣島の東北東方約133㎞に位置する。 8つの有人島から成る。 宮古島 池間島 大神島 来間島 伊良部島 下地島 多良間島 水納島 その中核は宮古島である。 宮古島と池間島 来間島の間は橋梁で連結されている。 伊良部島も2012年の架橋開通に向けて施工中である。 近い将来は宮古島 大神島 多良間島 水納島の離島群で形成 されるようになる。 宮古諸島の自然概観に共通する事は平坦地であって毒蛇ハブ が生息していないことである。 ※宮古島 山も川も無い平坦な島 最高峰で海抜113mの丘陵である。 島全体の被服土壌が浅く下層は琉球石灰岩で形成される。 石灰岩の浸透性が早いため雨水は短時間で海へ注ぐ。 故に海岸沿いは湧き水箇処が多い。 多量の濾過水が注がれる海の透明度は高くて エメラルドグリーンの煌めく海洋の広がりは美しい。 沿岸ビーチの砂は真白に輝き「白い宝石」と称される。 ※伊良部島(いらぶ) 面積;28.08k㎡ 人口;6,200人余は 宮古島から約7.3㎞の隣接距離に位置する。 神秘性に富んだ自然景観の多い島である。 ※多良間島(たらま) 面積;19.75k㎡人口;1,300人余は 宮古島の南西方約67㎞ 石垣島の東北東方約35㎞に位置する。 島の北方約8㎞に水納島(みんな)がある。 面積;2.15k㎡人口;5人 〓宮古諸島の見所・聞き所〓 ※仲宗根豊見親の墓(宮古島) 15世紀末頃に宮古島の支配者として君臨した豪族の墳墓 その築造仕様が貴重な歴史的遺産とされる。 ※久松五勇士顕彰碑(宮古島) 日露戦争の最中にバルチック艦隊(ロシア)が日本本土へ向け て北上するのを久松集落の住民が発見した。 その様子を本国へ知らせるべく住民協議に諮った。 そこで集落の漁夫5人を電信施設がある石垣島に派遣する事 を決めた。 漁夫達は小舟を繰り出して1昼夜漕いで石垣島に 辿り着き、「敵艦発見」の打電を東郷大将率いる連合艦隊へ 送信する事に成功したと伝わる。(明治38年) 顕彰碑は勇敢な漁夫達の壮挙を讃えて建立された。 ※人頭税石(宮古島) 琉球王府は中国 日本 朝鮮 タイ等東南アジア諸国との海外 交易で莫大な財力を生む事に成功して体制安定を続けていた。 ところが、13代国王;尚 寧(1589~1620年)の代になって 薩摩軍が多勢の軍と多量の武器・軍艦を持って急襲してきた。 武器を持たない琉球王府は瞬く間に制圧され占拠された。 侵攻目的は琉球國を介しての中国交易の展開にあった。 薩摩藩に蓄財を吸い上げられる琉球王府は忽ちに財政困窮 状態に陥った。 その対応策として14代国王;尚 豊(1621~1640年)は 宮古と八重山諸島の住民に対して人頭税納付を施行した。 課税対象者は15~50歳の全男女であった。 税納は穀物と反物でもって行われた。 村落の収穫量や住民の身分 性別 年齢によって税の細則等級 が決められて余りにも過酷な負担となる重税であった。 人頭税制は1637年に執行されて1903年に廃止された。 長期間続いた税制は他所では例を見ない悪税であった。 人頭税石は賦計り石とも呼ばれる高さ1.43mの石柱で、 この石柱の高さ以上の背丈になると税が課せられたと伝わる。 ※八月踊り(多良間島) 多良間島の伝統芸能 (国指定重要無形民俗文化財) 旧暦の八月に催される豊年祭である。 五穀豊穣を感謝して各御嶽へ報告し来る年の豊作を祈願する。 祭事で披露される棒踊り 組踊り 舞踊 獅子舞などの伝統芸能が 古式の琉球王朝時代を彷彿とさせると云われる。 起源は定かではないが、別称「皆納祝い/八月御願」とも云う。 過酷な人頭税制に苦しむ住民達が7月には税を皆納し、翌八月 には住民達がこぞって一堂に会して労苦を慰め喜び合い、翌年の 豊年を祈願したのが年中行事化したのではないかと伝わる。 ※パーントゥ(宮古島) パーントゥ(方言)とは鬼 妖怪の意 旧暦9月に催行される祭りである。 男三人が聖地の井戸から泥を汲み出して自らの全身に塗りたくる。 伝承の仮面を被ったその男達が頭にススキの作り物を被り全身は 蔓草で巻きつけて鬼神に扮する。 全身泥だらけの神になる。 鬼神は集落の屋内外をくまなく廻りながら出会う人々に容赦なく 泥を塗りつける。 時には新築の家にも上がり込んで部屋の壁など にも泥塗りする。 普段は静かな集落も逃げ惑う人々の悲鳴と歓声が響き渡る。 人・物に泥を塗って悪霊を払い無病息災をもたらすとされる。 ※博愛記念碑(宮古島) ドイツ商船ロベルトソン号は濠州へ向う途中台風にあって漂流 宮古島沖合で座礁して難破した。 島の人々は夜通しかがり火を焚いて励まし、翌朝荒天をついて 乗組員8人を救助した。1873(明治6)年 その後1ヶ月間程に亘って持成し、官船を与えて帰国させた。 後にこの事を知った当時のドイツ皇帝ウイルヘルム一世は 島の人々の勇気と博愛の精神を称えて、軍艦チクローブ号を 派遣して記念碑を建立した。1876(明治9)年 其の他小規模テーマパークドイツ文化村もある。 ドイツのマルクスブルク城を再現した記念館 本物のベルリンの壁が展示されているなどドイツの文化に 触れることが出来る。 ドイツからの親善大使も来島する。 ※宮古諸島のビユーポイント 1.人頭税石 2.仲宗根豊見親の墓 3.砂山ビーチ 4.久松五勇士顕彰碑 5.東平安名崎 6.多良間神社 7.ウプメ-カ 8.パ-ントゥ 9.八月踊り |
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◇宮古諸島散策 |