美ら島沖縄
     ( 画像; 沖縄エイサー )
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【 沖縄の祭り 】
『 エイサー 』を探訪しましょう。

〓エイサーの起源と歩み〓
エイサーの沿革
沖縄のお盆は旧暦7月13~15日にとり行われる。
お盆期間には御祓いの舞として欠かせないエイサーが興じられる。
エイサーは各家庭の無病息災、家内安全と繁盛を祈り、祖先の霊を供養する儀典として催行される。

集落の若者(男女)達が 唄って囃して太鼓を打ち鳴らしつ、種々の隊形を組みながら各戸を巡回し、戸口や庭先で舞を披露する。

エイサーの構成には各集落・地域によって固有のスタイルがある。
その伝承に勤めながら催行されているのが一般的である。
ところが近年、
毎年のお盆行事を済ませた後に全島エイサーコンクールなるイベントが開催されるようになって、エイサースタイルに変化が現れてきた。

コンクール出場に向けて、意欲的な若者達は我が陣地に栄耀をもたらさんがため、伝承スタイルに拘りながらも、舞の隊形や衣装などに趣向を凝らした創作を採り入れるようになった。

コンクールは年毎に盛況を博すようになって、沖縄の夏の風物詩と呼ばれるまでになった。
また、観光客の観覧数も増大するようになって、エイサーが県外へ伝播する広がりをみせている。
他都府県の学校運動会などには、学童達が舞うエイサーをプログラムに採り入れている場合が有るとも伝わる。

本来はお盆期間の催行に限られる舞であったが、今では平常時に多くのイベント会場やリゾート施設などで舞われるようになった。
それに伴って、
伝承スタイルを離れて集客効果を意識した衣装や太鼓のパフォーマンスを採り入れ、観せるためのオリジナル・エイサーも出現している。

念仏踊り(エイサー)の起源
エイサーの起源には諸説あって定かではない。
17世紀初頭、沖縄で東北地方出身のお坊さんが浄土宗の布教活動を始めたと伝わる。
そのお坊さんが浄土念仏を布教する為、東北地方で伝わるジャンガラ踊りをヒントにした念仏踊りを創ったやに伝わる。
その唄と踊りがエイサーの原形であると云う説が有力のようである。

念仏踊りの伝播
首里王族と念仏詠唱
お坊さんの評判を伝え聞いた首里の王家や貴族の間で、お坊さんを屋敷に招いて念仏詠唱を詠じらせたそうです。

京太郎達と屋敷町
18世紀中頃から、首里の屋敷町でもお盆の期間に念仏僧を招いて先祖の供養を行なう儀式が催行されるようになったそうです。
形式は門付唄と念仏唄だけで詠じられたそうです。

そのうち屋敷町からの要請が多くなり一人では応えきれなくなった。そこで、お坊さんは京都から数名の太郎を招いて念仏僧の役を担わせた。
その念仏僧のことを京太郎 (方言:チョンダラー) と称する。

京太郎達の活動
京太郎達は首里の町に留まらず他の村々を渡り歩いて念仏踊りを広めたそうです。
首里王府はその活動を黙認していた。
正月には門付けの祝詞を、葬式では鉦や太鼓を打ち鳴らして念仏を唱え舞う。
又お盆には各戸を巡回して祖先の霊を供養し無病息災や家内安全 ・繁盛を祈願して念仏踊りを詠じた。
京太郎達の振る舞いは村人達の評判を呼んだそうです。

★琉球王国の崩壊と文化活動
1871年に明治政府の廃藩置県施策により琉球王国は日本国内の藩の一つに位置づけられた。
それから間もなくの1879年(明治12年)に沖縄県となった。
ここにおいて、尚巴志国王(1429年即位)から約450年間存続した王朝統治の琉球王国は幕を閉じることになった。

明治代の沖縄は統治体制の変革に伴う波乱の時代であった。
文化活動では、これまで王府に庇護されてきた職人・芸人達が自活の道を歩まざるを得なくなった。

彼らは王府内で留まっていた文化諸式を一般庶民に披露し広める事で活路を見出すようになった。

それらの諸式には、舞踊、歌謡、音楽、染織物、焼き物、漆器、料理など多岐のジャンルがあった。
高度な技に裏打ちされた作品・製品は、王府・貴族の司事や外来客の歓待時に活用されてきた。

元王府直属の職人・芸人達が一般庶民相手に繰り広げる美技は、初めて触れる庶民達の感動を呼び起こし評判は大きな広がりを見せた。

若者達と文化活動の広がり
琉球王國の崩壊に伴って、これまで王府内に留められていた文化的産物の全てが露出され、一般庶民でも直に触れる事ができた。
庶民の間では文化的産物に興味を示す人々が多くなった。
なかんずく、最も手近に関心を持ったのが舞踊、歌謡、音楽と云われる。
特に若者達の中からは、観るだけに止まらず自らが演じ創作する活動へ積極的に参画する人々が現れた。

集落・地域にあっては、それまで京太郎達が担っていた念仏踊りなどを若者達が代行して演じるようになった。
従来から地元の祈願式典で執り行なわれてきた祈りの舞に、伝来の民謡などを採り込むスタイルも創出した。

念仏踊りでは、振り付け、衣装、小道具、音出しなどに趣向を凝らした独自スタイルも創作された。
この代に、若者達によって創作された念仏踊りの新たなスタイルが、各集落・地域の特性スタイルとなって今日まで伝承されていると云われる。

若者達の地域活動は念仏踊りつまりエイサーを県内全域に広める礎となった。

地域で育まれるエイサー
集落・地域によって隊形、振り付け、衣装などに特性がある。
また、冠に集落や地域の名を付して称されるのが一般的である。
園田エイサー千原エイサー平敷屋エイサー屋慶名エイサー
喜屋武エイサーなどがよく知られている。

エイサーの語源
エイサーの語源は諸説あって定かではない。
現代ではお盆の時に現世に戻ってくる祖先の霊を供養する為、村々の若者達が唄と囃子に合わせて踊りながら道を練り歩く念仏踊りの事を称してエイサーと呼ぶのが一般的である。
地域によっては七月舞念仏廻りとも呼ばれる。
エイサ~・エイサ・サ~アッサッ!次回に続く
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◇園田エイサー