( 画像; 勢理客の獅子舞 ) |
【 沖縄の祭り 】 沖縄本島/浦添市の『 勢理客の獅子舞 』を探訪しましょう。 〓 浦添市の沿革 〓 浦添市(うらそえ/面積:19.09K㎡ 人口:110,500人余)は 那覇市の北辺に隣接して那覇市から延びる市街化が進んでいる。 南側の那覇市及び北側の宜野湾市(ぎのわん/面積:19.70K㎡ 人口:92,800人余)と連動した沖縄県の核となる市街地帯である。 県内外の主な商工業が集積して都市化現象が顕著である。 〓 琉球史にみる浦添〓 その昔の琉球は、島内各地に勢力を張る豪族達によって分割統治される状態にあった。 勢力拡大を図らんとする、豪族間での争いが絶え間なく起きた。 長期にわたる群雄割拠を繰り返えしているなかで、次第に3大勢力に収束されるようになった。 その3大勢力の統治範囲と本拠地 ・ 北部域(北山/本拠:今帰仁城) ・ 中部域(中山/本拠:浦添城) ・ 南部域(南山/本拠:大里城) 統治領域名称を北山、中山、南山と呼ばれた。 それを琉球史における時代区分で「 三山時代 」と称している。 1322年頃から1429年まで、三山体制の統治が続いたと伝わる。 なかでも「 中山/本拠:浦添城 」は強大な勢力を保持していた。 三山体制は沖縄本島のみの分割統治であり、宮古や八重山諸島などには及んでいなかった。 ★ 三山時代の浦添 中山は、舜天(しゅんてん)を祖する系統、英祖(えいそ)を祖する系統及び察度(さっと)を祖する系統の領主達によって治められた。 うち、英祖と察度系統の領主は浦添城を本拠とした。 浦添城は13世紀頃に築城されていたと伝わる。 三山体制は、しばらくの安寧を維持した。 ところが、 最大勢力を誇ってきた中山が領主:武寧(ぶねい:察度の子息)の代に他領地の豪族:尚巴志(しょうはっし)によって淘汰された。 尚巴志は南山の一区域を居所(佐敷城)とする豪族であった。 中山の領主:武寧が住民に離反する統治を続けて孤立化し、組織的弱体化を招いているのを見計らうや討伐を図り成功をおさめた。(1405年) 尚巴志は中山の領主に父の尚思紹を就任させて、自らは本島統一の段取りに執りかかった。 ★ 浦添は琉球王朝発祥の地 尚巴志は1416年に北山を、そして1429年には南山をも手中に収めて本島の平定を果たした。 そして、想い描いた【 統一琉球王國 】を創設した。 王位を頂天とする王朝統治体制を敷設して、その初代国王には尚巴志自らが即位した。(1429年) まもなく、 王府を浦添(浦添城)から首里(首里城)に移転した。 以降の琉球王國は25代目国王:尚泰(しょうたい/1879年退位)までの長期にわたり王朝時代が続いた。 浦添市の歴史は古く、琉球王朝発祥の地と伝わる。 浦添の名称由来は「 津々浦々を支配する 」の意から転じたとされる。 〓 勢理客の獅子舞 〓 勢理客(じっちゃく/面積:0.85K㎡ 人口:4,500人余)は 浦添市の数ある字区のうちの一区画である。 毎年旧暦8月15日満月の夜に勢理客自治会主催の獅子舞が演じられる。 400年以上の歴史を持つ勢理客の獅子舞は舞の型が13種類もあると云われる。 舞のステージでは、狂言者がドラや太鼓、笛、ホラ貝などで獅子を誘い出して舞わせる。 獅子は、後ろ足で立ち上がったりしてのパフォーマンスを繰り広げるが、その大きく踏み込む足運びの諸動作に特徴があると云われる。 古代の型を変えずに伝承している事が評価されて 【 国指定重要無形民俗文化財 】 となった。 獅子の素材: 頭は、材質の軽い梯梧(デイゴ)の木で造作 胴体は、シュロ縄を編み、それに芭蕉や苧麻の繊維をシャリンバイで染色して毛にする。 ※ 沖縄の獅子舞 獅子舞は古くから県内各地の村落などで豊年祭や厄払いの祈願行事を執り行なう時に演じられる。 豊年祭では第一番目の演目として披露され、座を清めると伴に邪気を払うとされる。 獅子を舞わすことによって悪霊を払い、五穀豊饒を招来して人々に繁栄がもたらされるとされる。 |