美ら島沖縄
     ( 画像; 多良間島の八月踊 り )
八月踊り
【 沖縄の祭り 】
宮古諸島/多良間島の『 八月踊 り 』を探訪しましょう。

〓 多良間島の沿革 〓
多良間島は、宮古諸島圏域に帰属している。
8つの有人島から成っている宮古諸島の最南西に位置している。
※ 多良間島
多良間島(たらま/面積;19.75k㎡人口;1,300人余)は
宮古島の南西方向約67㎞ 石垣島の東北東方向約35㎞に位置する。
宮古島と石垣島とのほぼ中間に位置し、周囲約30kmほどの平坦な島である。
宮古島からの交通アクセスは、双発プロペラ機で25分である。
海岸線は自然の真白な砂浜が点在し、村落は全体的に濃い緑に包まれて「福木の里」とも呼ばれる。
住民達は悠々の時を長閑に暮らしている。

〓 八月踊り 〓
毎年 旧暦8月8日から3日間にわたって【 豊年祭り 】が催行される。
その昔、島の住民達は「皆納祭り」「八月御願 」とも呼んだ。
祭り期間には、御嶽広場で住民達による【 八月踊り 】が演じられる。
八月踊りでは、地元伝来の地唄や踊りに加えて、琉球王府の宮廷芸能であった「組踊り」や「舞踊」など多数の演目が披露される。
その芸技の運びは、琉球王國時代の宮廷芸能を今に伝える一大絵巻の如きであるとも云われる。
※ 八月踊りにみる組踊りや古典舞踊
近年では、八月踊りの演目で「組踊りや古典舞踊」が演じられるようになった。 その演舞は、琉球王國時代の宮廷芸能であった。
海外交易の収益で財政豊かにあった王府は、直属の芸人・職人を育成して、司事や賓客歓待などで仕わせた。
明治代になって琉球王國は幕を閉じることになり、それまで宮廷内に留まっていた諸々の芸能が庶民にも触れる事ができるようになった。
(宮廷内で演じられた音楽や舞踊を「古典音楽」「古典舞踊」と称する)

琉球王國閉幕以降から、多良間島の住民達は、組踊りや舞踊などの宮廷芸能を八月踊りの演目に組み入れるようになった。
本来は厳格・優美に演じられる宮廷芸能であるが、島民の生活感や楽天性を滲ませて織り込んだ八月踊りでの芸技は呼び物となっている。

◆ 皆納祭り
その昔、多良間島の豊年祭りは「皆納祭り 」と呼ばれた。
重税納付のために、住民達は日々過酷な労働を強いられた。
住民達は毎年の旧暦7月までに穀物を収穫して、負担税を皆納する事に努め、翌8月には村落の御嶽庭に集って、皆納の御報告と御礼を奉じた。 そして、来る年の豊作を祈願した。
その場では、御嶽の神前で「奉納踊り」を舞うのが儀典となっていた。
住民達が日常の辛苦を御神酒と踊りで癒される唯一の時間であった。
時を経るにつれて、地元伝来の地唄や踊りが演目に加えられるようになって、厳かながらも賑わいのある年中行事の祭りとなった。

〓 豊年祭りが*皆納祭り*とも呼ばれた所以 〓
海外交易から得る莫大な収益を基にして、豊かな経済運営を図ってきた琉球王國は、薩摩藩の侵攻支配に因り、政治的経済的な困窮状態に陥る事になった。
以降、270年間も市民生活は過酷な労苦を強いられ続けることになる。
※ 琉球王國の全島平定
統一琉球王國は、初代国王:尚 巴志(しょうはっし/1429年即位)から
25代目国王:尚 泰(しょうたい/1879年退位)までの約450年間の長期にわたる王位体制であった。
王位体制創設当初の統括領域は、沖縄本島のみであった。
9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)の代に、宮古・八重山諸島及び周辺離島をも平定して直接統治するようになった。
ここに至って、琉球王府を頂天とする中央集権国家が完成した。
※ 琉球王國の繁栄
国家的一体化を進めながら、中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して海洋王国構築への道を推進した。
仲継交易が莫大な財力を生む事に成功して、経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
来訪者を歓待する用に、王府は音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
蓄財に支えられた文芸活動の謳歌を極める華やかな時代であった。
※ 薩摩藩の侵攻
13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって、国家体制に大きな激震が起きる事になる。
大挙の軍隊を引き連れた薩摩藩に侵攻され占拠された。 (1609年)
以後の琉球王府は、薩摩藩の承諾無しで諸策を進める事が制限された。
薩摩藩の侵攻目的は、琉球國からの蓄財吸い上げと琉球國を介しての中国交易の展開にあった。
薩摩藩は、琉球國の体制を体面的に存続させながら、諸施策を指図して中国との交易を行わせた。
当時の薩摩藩は、中国から交易を断絶されて、藩財政の困窮状態が続いていた。
琉球王府は、拠所としてきた海外交易からの捻出財源を収奪されたうえに薩摩藩への税上納を求められるに至った。
以後、その支配関係が270年間も続けられることになる。
※ 琉球王府の財政逼迫と人頭税制施行
然る後に、琉球王府は財政困窮状態に陥った。
14代目国王;尚 豊(しょうほう/1621~1640年)は、宮古・八重山諸島及び周辺離島に対して【 人頭税制 】を施行した。 (1637年執行)
その制度の税納は穀物で行われたが、後に反物も付加された。
村落の収穫量や住民の身分、性別、年齢によって税の細則等級が決められた。 課税対象者は、15歳から50歳までの全男女に課された。
住民は過重な税負担に苦しむ日常生活に陥るが、特に貧民・病人にとっては余りにも過酷な負担となる重税であった。
この制度は、1903年(明治36年)までの約267年間も続くことになる。
納税に苦しんだ島民の悲劇を記した史書・史跡が数多く現存している。
八月踊りは民間伝承 の 【 国指定重要無形民俗文化財 】である。