凪さの島々

沖縄諸島の歴史,生活文化,自然,伝統工芸,伝統音楽を見聞する.

沖縄の祭り

宮古諸島/多良間島の八月踊り

美ら島沖縄
     ( 画像; 多良間島の八月踊 り )
八月踊り
【 沖縄の祭り 】
宮古諸島/多良間島の『 八月踊 り 』を探訪しましょう。

〓 多良間島の沿革 〓
多良間島は、宮古諸島圏域に帰属している。
8つの有人島から成っている宮古諸島の最南西に位置している。
※ 多良間島
多良間島(たらま/面積;19.75k㎡人口;1,300人余)は
宮古島の南西方向約67㎞ 石垣島の東北東方向約35㎞に位置する。
宮古島と石垣島とのほぼ中間に位置し、周囲約30kmほどの平坦な島である。
宮古島からの交通アクセスは、双発プロペラ機で25分である。
海岸線は自然の真白な砂浜が点在し、村落は全体的に濃い緑に包まれて「福木の里」とも呼ばれる。
住民達は悠々の時を長閑に暮らしている。

〓 八月踊り 〓
毎年 旧暦8月8日から3日間にわたって【 豊年祭り 】が催行される。
その昔、島の住民達は「皆納祭り」「八月御願 」とも呼んだ。
祭り期間には、御嶽広場で住民達による【 八月踊り 】が演じられる。
八月踊りでは、地元伝来の地唄や踊りに加えて、琉球王府の宮廷芸能であった「組踊り」や「舞踊」など多数の演目が披露される。
その芸技の運びは、琉球王國時代の宮廷芸能を今に伝える一大絵巻の如きであるとも云われる。
※ 八月踊りにみる組踊りや古典舞踊
近年では、八月踊りの演目で「組踊りや古典舞踊」が演じられるようになった。 その演舞は、琉球王國時代の宮廷芸能であった。
海外交易の収益で財政豊かにあった王府は、直属の芸人・職人を育成して、司事や賓客歓待などで仕わせた。
明治代になって琉球王國は幕を閉じることになり、それまで宮廷内に留まっていた諸々の芸能が庶民にも触れる事ができるようになった。
(宮廷内で演じられた音楽や舞踊を「古典音楽」「古典舞踊」と称する)

琉球王國閉幕以降から、多良間島の住民達は、組踊りや舞踊などの宮廷芸能を八月踊りの演目に組み入れるようになった。
本来は厳格・優美に演じられる宮廷芸能であるが、島民の生活感や楽天性を滲ませて織り込んだ八月踊りでの芸技は呼び物となっている。

◆ 皆納祭り
その昔、多良間島の豊年祭りは「皆納祭り 」と呼ばれた。
重税納付のために、住民達は日々過酷な労働を強いられた。
住民達は毎年の旧暦7月までに穀物を収穫して、負担税を皆納する事に努め、翌8月には村落の御嶽庭に集って、皆納の御報告と御礼を奉じた。 そして、来る年の豊作を祈願した。
その場では、御嶽の神前で「奉納踊り」を舞うのが儀典となっていた。
住民達が日常の辛苦を御神酒と踊りで癒される唯一の時間であった。
時を経るにつれて、地元伝来の地唄や踊りが演目に加えられるようになって、厳かながらも賑わいのある年中行事の祭りとなった。

〓 豊年祭りが*皆納祭り*とも呼ばれた所以 〓
海外交易から得る莫大な収益を基にして、豊かな経済運営を図ってきた琉球王國は、薩摩藩の侵攻支配に因り、政治的経済的な困窮状態に陥る事になった。
以降、270年間も市民生活は過酷な労苦を強いられ続けることになる。
※ 琉球王國の全島平定
統一琉球王國は、初代国王:尚 巴志(しょうはっし/1429年即位)から
25代目国王:尚 泰(しょうたい/1879年退位)までの約450年間の長期にわたる王位体制であった。
王位体制創設当初の統括領域は、沖縄本島のみであった。
9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)の代に、宮古・八重山諸島及び周辺離島をも平定して直接統治するようになった。
ここに至って、琉球王府を頂天とする中央集権国家が完成した。
※ 琉球王國の繁栄
国家的一体化を進めながら、中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して海洋王国構築への道を推進した。
仲継交易が莫大な財力を生む事に成功して、経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。
王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。
来訪者を歓待する用に、王府は音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。
蓄財に支えられた文芸活動の謳歌を極める華やかな時代であった。
※ 薩摩藩の侵攻
13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって、国家体制に大きな激震が起きる事になる。
大挙の軍隊を引き連れた薩摩藩に侵攻され占拠された。 (1609年)
以後の琉球王府は、薩摩藩の承諾無しで諸策を進める事が制限された。
薩摩藩の侵攻目的は、琉球國からの蓄財吸い上げと琉球國を介しての中国交易の展開にあった。
薩摩藩は、琉球國の体制を体面的に存続させながら、諸施策を指図して中国との交易を行わせた。
当時の薩摩藩は、中国から交易を断絶されて、藩財政の困窮状態が続いていた。
琉球王府は、拠所としてきた海外交易からの捻出財源を収奪されたうえに薩摩藩への税上納を求められるに至った。
以後、その支配関係が270年間も続けられることになる。
※ 琉球王府の財政逼迫と人頭税制施行
然る後に、琉球王府は財政困窮状態に陥った。
14代目国王;尚 豊(しょうほう/1621~1640年)は、宮古・八重山諸島及び周辺離島に対して【 人頭税制 】を施行した。 (1637年執行)
その制度の税納は穀物で行われたが、後に反物も付加された。
村落の収穫量や住民の身分、性別、年齢によって税の細則等級が決められた。 課税対象者は、15歳から50歳までの全男女に課された。
住民は過重な税負担に苦しむ日常生活に陥るが、特に貧民・病人にとっては余りにも過酷な負担となる重税であった。
この制度は、1903年(明治36年)までの約267年間も続くことになる。
納税に苦しんだ島民の悲劇を記した史書・史跡が数多く現存している。
八月踊りは民間伝承 の 【 国指定重要無形民俗文化財 】である。

浦添市勢理客の獅子舞

美ら島沖縄
     ( 画像; 勢理客の獅子舞 )
勢理客の獅子舞
【 沖縄の祭り 】
沖縄本島/浦添市の『 勢理客の獅子舞 』を探訪しましょう。

〓 浦添市の沿革 〓
浦添市(うらそえ/面積:19.09K㎡ 人口:110,500人余)は
那覇市の北辺に隣接して那覇市から延びる市街化が進んでいる。
南側の那覇市及び北側の宜野湾市(ぎのわん/面積:19.70K㎡ 人口:92,800人余)と連動した沖縄県の核となる市街地帯である。
県内外の主な商工業が集積して都市化現象が顕著である。

〓 琉球史にみる浦添〓
その昔の琉球は、島内各地に勢力を張る豪族達によって分割統治される状態にあった。
勢力拡大を図らんとする、豪族間での争いが絶え間なく起きた。

長期にわたる群雄割拠を繰り返えしているなかで、次第に3大勢力に収束されるようになった。
その3大勢力の統治範囲と本拠地
・ 北部域(北山/本拠:今帰仁城)
・ 中部域(中山/本拠:浦添城)
・ 南部域(南山/本拠:大里城)
統治領域名称を北山中山南山と呼ばれた。 
それを琉球史における時代区分で「 三山時代 」と称している。
1322年頃から1429年まで、三山体制の統治が続いたと伝わる。
なかでも「 中山/本拠:浦添城 」は強大な勢力を保持していた。
三山体制は沖縄本島のみの分割統治であり、宮古や八重山諸島などには及んでいなかった。

★ 三山時代の浦添
中山は、舜天(しゅんてん)を祖する系統、英祖(えいそ)を祖する系統及び察度(さっと)を祖する系統の領主達によって治められた。
うち、英祖と察度系統の領主は浦添城を本拠とした。
浦添城は13世紀頃に築城されていたと伝わる。

三山体制は、しばらくの安寧を維持した。
ところが、
最大勢力を誇ってきた中山が領主:武寧(ぶねい:察度の子息)の代に他領地の豪族:尚巴志(しょうはっし)によって淘汰された。

尚巴志は南山の一区域を居所(佐敷城)とする豪族であった。
中山の領主:武寧が住民に離反する統治を続けて孤立化し、組織的弱体化を招いているのを見計らうや討伐を図り成功をおさめた。(1405年)

尚巴志は中山の領主に父の尚思紹を就任させて、自らは本島統一の段取りに執りかかった。

★ 浦添は琉球王朝発祥の地
尚巴志は1416年に北山を、そして1429年には南山をも手中に収めて本島の平定を果たした。
そして、想い描いた【 統一琉球王國 】を創設した。
王位を頂天とする王朝統治体制を敷設して、その初代国王には尚巴志自らが即位した。(1429年)
まもなく、
王府を浦添(浦添城)から首里(首里城)に移転した。
以降の琉球王國は25代目国王:尚泰(しょうたい/1879年退位)までの長期にわたり王朝時代が続いた。

浦添市の歴史は古く、琉球王朝発祥の地と伝わる。
浦添の名称由来は「 津々浦々を支配する 」の意から転じたとされる。

〓 勢理客の獅子舞 〓
勢理客(じっちゃく/面積:0.85K㎡ 人口:4,500人余)は
浦添市の数ある字区のうちの一区画である。

毎年旧暦8月15日満月の夜に勢理客自治会主催の獅子舞が演じられる。
400年以上の歴史を持つ勢理客の獅子舞は舞の型が13種類もあると云われる。

舞のステージでは、狂言者がドラや太鼓、笛、ホラ貝などで獅子を誘い出して舞わせる。
獅子は、後ろ足で立ち上がったりしてのパフォーマンスを繰り広げるが、その大きく踏み込む足運びの諸動作に特徴があると云われる。

古代の型を変えずに伝承している事が評価されて
国指定重要無形民俗文化財 】 となった。

獅子の素材:
頭は、材質の軽い梯梧(デイゴ)の木で造作
胴体は、シュロ縄を編み、それに芭蕉や苧麻の繊維をシャリンバイで染色して毛にする。

沖縄の獅子舞
獅子舞は古くから県内各地の村落などで豊年祭や厄払いの祈願行事を執り行なう時に演じられる。

豊年祭では第一番目の演目として披露され、座を清めると伴に邪気を払うとされる。
獅子を舞わすことによって悪霊を払い、五穀豊饒を招来して人々に繁栄がもたらされるとされる。

那覇大綱挽

美ら島沖縄
     ( 画像; 那覇大綱挽 )
那覇大綱挽
【 沖縄の祭り 】
沖縄本島/那覇市の『 那覇大綱挽 』を探訪しましょう。

◎ 県都/那覇市
那覇市は東西10km南北8kmに広がる街で、人口31万余人が居住する。沖縄県の政治・経済・文化活動の中心となっている県都です。

◎ 那覇まつり
毎年10月上旬に県下最大の祭り【 那覇まつり 】が開催される。
三日間に亘り、様々な団体・企業・芸能保存会などによるイベントが繰り広げられる。 なかでも最大の呼物が「那覇大綱挽」である。

〓 那覇大綱挽 〓
大綱挽イベントは、祭り二日目の午後から執り行われる。
二日目の朝一番には、国道久茂地街路に巨大綱が忽然と現れる。
★ 大綱の規格
本綱の長さ100m×2/直径1.56m/総重量45トン
本綱は、雄綱と雌綱からなる。
本綱には、長さ約7mの枝綱が300×2本程付いている
挽き手は、本綱から伸びる枝綱を手にして挽く
綱の材料は米藁(ワラ)
綱の製作には20人がかりで40日間程かかると云われる。
★ 勝負判定基準
挽きは1回限り、制限時間30分
勝ち→ 5m挽き寄せた側
判定勝ち→ 3m以上5m未満を挽き寄せた側
引分け→ 3m未満
★ 組分け
那覇市に数多くある自治会を、東・西の二組に分ける。
市内在住者の多くは、基本的に居住している自治会側に参加する。
市外・県外・海外からの来場者は、どちらの側にでも気軽にフリーハンドで参加できます。 その場合、人数が偏らないように競技実行委員会からの誘導があります。

◆ 大綱の製作と綱挽き広場の設置
製作は「那覇大綱挽保存会」のメンバーが中心となって進められる。
毎年、米藁(ワラ)を素材にした新しい綱が編まれる。
巨大な綱だけに港の広い荷捌場を製作ヤードとして使用している。

綱挽き広場の設置は
前日の深夜から国道久茂地街路の約1.5km区間が交通規制される。
綱挽き供与として移動可能式に布設された中央分離帯をフォークリフトで移動する。
中央分離帯が撤去されて仮設広場となった街路に
製作ヤードからロング・トレーラに積載されて着た大綱を、大型クレーンで任意の位置に吊り降ろす。
深夜から朝方にかけての大掛かりな作業で、大綱の設置が終了する。

◆ 県下最大の祭りイベント
綱の挽き手挑戦者が約1万6千人、沿道の観衆を含めると約29万人もの人々が参加する大イベントです。
当日は、挽き手としてチャレンジしたい、又は直に観戦したいと志す人々で街路広場が埋め尽くされます。

「ハーイヤッ! ハーイヤッ!」の掛け声で挽き合うが
挽き初めの暫らくは、全員の呼吸が不揃い故、綱は全く動かない状態が続き、挽き手の両腕にシビレ感が走る困憊に陥ってしまう。
孤軍奮闘する自らの無力さを痛感させられる一時である。

綱が僅かながら動き始めるのは、全員の呼吸が一致した時からである。その時の喜こびと発揚感は、挽き手に更なる力が湧き出して格別である。
呼吸が合って挽く景観は、うねる荒波の如きに壮大なパノラマを呈する。
那覇大綱挽は沖縄の【秋の風物詩】として、県民市民が誇らかに高揚するイベントである。

〓 ギネス認定の大綱 〓
≪米藁で製作された世界一の綱≫として、1995年にギネス認定された。

那覇大綱挽は、なぜ 「引」 ではなく 「挽」 なの?
大衆によって力強く引っ張られる巨大な綱が、ギッギッギュッと地面を擦りながら動く様子から「挽」の字を用いるようになったと伝わる。

★ 平成21年の那覇まつり
10月10日(土)から12日(月)迄の三日間
大綱挽は11日(日)の午後
※参照→ 詳細は那覇市観光協会公式サイト
那覇ナビ をご覧ください。


沖縄諸島のエイサー(3)

美ら島沖縄
     ( 画像; エイサー太鼓 )
エイサー太鼓
【 沖縄の祭り 】
『 エイサー 』を探訪しましょう。

〓エイサーの伝承は青年会活動〓
エイサーは、元来、お盆期間に各家庭の無病息災、家内安全と繁盛を祈り、祖先の霊を供養する儀典として催行される。
各集落・地域によって、その形態に特異性を有して伝承されている。
メンバーは、基本的に該地域の青年男女で構成され、青年会のボランティア活動で催行される。
ところによっては、巡回する各家庭から「志の寄付金」を頂いて、活動資金に充てるグループもある。
青年達は、毎年お盆の2ヶ月程前になると、勤めを終えた夕刻から最寄の公民館や広場に集って毎日の稽古に励む。
その時節は、夕暮れ時のここかしこから太鼓の音が響いてくる。

〓エイサースタイルの変遷〓
本島中部地域は青年会のエイサー活動が最も盛んな所である。
本年(2009年)で54回の開催となった全島エイサーまつり/旧:全島エイサーコンクールは、コザ市(現:沖縄市)の青年会が中心になっての取り組から始まった。
毎年お盆明けの最初の週末に、各地から選抜されたエイサー隊が一堂に集いて、互いの演舞を競い合うイベントである。
今では、県外や海外からもエイサー隊が参加するようになり、県下最大のエイサーイベントに成長した。
毎年20万人余の観客で賑わう沖縄の夏の風物詩と呼ばれる。

全島エイサーまつりを重ねる毎に、伝来のエイサー形態が、その隊形、振り付け、衣装、大・小道具、音出しなどに変化を見せ始めた。
祈願を旨とするエイサーから観せるエイサーを意識したパフォーマンスの採り入れである。

各集落・地域の伝統エイサーを継承するグループは、基本スタイルを護持しながらも、隊形、振り付け、鳴り物などに多少なりの新たな趣向を採り入れるようになった。
また、琉球國まつり太鼓グループに代表される如く、祈願のエイサーから離れて、完全に観せるエイサーに徹したエンターティメントとしての創作エイサーも現れるようになった。

●琉球國まつり太鼓
伝来の太鼓エイサーを基本にしたフォーメイションの創作舞である。
空手の型を採り入れ、独創性豊かで勇壮な舞は大人気である。
1982年、沖縄の若者達により太鼓集団として結成された。
沖縄県に本部を置いて、県外・海外に数多くの支部を設けている。
その活動概要を
琉球國まつり太鼓 のホームページから抜粋して複写掲載します。
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2009年現在の会員数は
沖縄県内に
名護、宜野座、うるま、沖縄、西原、与那原、那覇、豊見城、糸満、石垣、宮古の11支部約300名、
県外では
北海道、長野、東京、埼玉、神奈川、岐阜、愛知、栃木、滋賀、
京都、奈良、兵庫、大阪、香川、愛媛、徳島、広島、長崎、 熊本、
天草、福岡、柳川、大分、佐賀、宮崎、鹿児島(沖永良部)、
そして海外では
アメリカ(ワシントンD.C、ロサンゼルス、テキサスヒューストン、ノースカロライナジャクソンビル、ハワイ)
ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、メキシコにも支部がある。
総勢約1500名あまりの世界規模での広がりを見せています。

活動も沖縄県内のイベントはもちろん、県外、海外でも活動を広げ、
東京国立劇場やニューヨークカーネギーホールといった大舞台をはじめ、ヨーロッパ、オーストラリア、シンガポール、インドネシア、中国、台湾など国際的にも活躍しています。

98年2月には「長野オリンピック文化芸術祭」、
同年8月にはアルゼンチンにて開催された
「沖縄県人南米移住90周年記念祭」にも沖縄から30名のが参加

さらに2005年8月には、日本では35年ぶりとなる国際博覧会
「愛知万博 愛・地球博」の公式イベント”地球大交流祭”に、
7日間の日程で参加。 愛・地球広場のメインステージにて
連日1時間にわたる公演を行いました。
会員一同
沖縄の文化を世界にと、新たなる感動の創出に取り組んでいます。
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〓沖縄で毎年開催される主なエイサーイベント〓
島や地区単位での開催は数多くあります。
秋の運動会では、多くの学校がプログラム化しています。
参集範囲を広げた大規模な催行物としては、次のイベントがある。
★夏祭りin那覇 1万人のエイサー踊り隊
・会場:那覇市国際通り(約1.5km)
・時期:八月上旬
県内各地の伝統エイサー、創作エイサー、子供エイサー、各種団体のエイサーなどが出演する。
県外から
よさこい踊りよさこいソーラン踊り隊などもゲスト出演する。
また、海外からのエイサー隊も出演する。
総じて1万人の踊り隊が国際通りを舞いながら練り歩く。
★青年ふるさとエイサー祭り
・会場:各地の総合運動公園(年毎に決める)
・時期:八月下旬
県青年連合会主催で、各地の青年会エイサー隊が一堂に集う。
★全島エイサーまつり
・会場:沖縄市総合運動公園
・時期:お盆後の週末3日間(沖縄のお盆は、旧暦7月13~15日)
県内各地選抜の青年会や団体のエイサー隊が意気盛んに舞う。
全国の姉妹都市や協賛団体からのゲスト出演もある。
琉球國祭り太鼓や子供エイサーなども出演する。
ここでも、世界の沖縄県人会ネットワークを通しての海外グループの参加がある。
また、在沖米軍基地に駐留する軍人メンバーの参加もある。
県内で最大規模のエイサーイベントである。
エイサー編 The End!
クリック して↓映像をご覧ください
◇琉球國まつり太鼓

沖縄諸島のエイサー(2)

美ら島沖縄
     ( 画像; 沖縄エイサー )
エイサー祭り
【 沖縄の祭り 】
『 エイサー 』を探訪しましょう。

時を経るなかで、隊形、振り付け、衣装、大・小道具、音出しなどに趣向性を採り入れて変化して来たエイサーのスタイル沿革を概述してみます。

〓エイサーの形態〓
演舞の形態には、【手踊りエイサーと太鼓エイサー】がある。
●手踊りエイサー
踊り手の輪の中で唄い手が唄い、それに応えて踊り手が囃子を唄う。
三味線の伴奏を付して男女で踊るのと、手持ちの締太鼓で調子音を入れながら女性のみで踊る形態がある。
●太鼓エイサー
唄・三味線の演唱を付して、踊り手が太鼓をバチで叩きながら舞う。
用いられる太鼓の形は、大太鼓/締太鼓/パーランクーの3種がある。
太鼓を持って舞うのは基本的に男性である。
太鼓を纏いながらの舞いは、身体を捻る・しゃがむ・飛ぶ・回転するといった激しいアクションをみせる。
男女混成隊形で舞う場合の女性の役目は、手踊りと囃子唄いにある。

現代では、男女混成隊形で舞うのが殆どであり、その形態を指して
「エイサー」と呼んでいるのが一般的である。

集落や市街地の路地を、多人数の青年男女が隊列を整えながら、唄い、舞い、鳴り物入りで練り歩く光景は優雅であり壮観である。

≪エイサーで使用される道具・衣装など≫
旗頭
隊の地元である集落・地域名を染め入れた旗
隊の先頭に掲げて、「我らここに在り」を誇示する。
大太鼓
直径:50cm 丈:50cm程の木胴筒に両面革張り
力強さを響かせながら隊の先陣を練る。
締太鼓
直径:30cm丈:10cm程の木胴筒に両面革張り
リズム感と躍動感のある響きで隊を導く。
パーランクー
直径:20cm程の木胴筒に片面革張り
リズミカルで軽快な響きで隊の躍動感を醸す。
その他の小道具
隊によっては四つ竹、手拭、扇などを採り入れている。
地方(ぢかた)
唄・三味線を演唱する。
演唱される曲目は、基本的に地元伝来の地唄を奏でる。
次々に繰り出す演唱が太鼓舞いや踊り手に快活感を注ぐ。
沖縄民謡は、唄と三味線が絃声一体になって演じられ、
【唄三味線の音楽】と云われる。
その弾き語りのスタイルは、現在でも伝承されている。
衣装
男性:木綿の白長袖シャツに白股引き、脚絆など
女性:浴衣や絣の装い。
その昔の衣装は、男女ともに芭蕉布織の絣に鉢巻きスタイルであったが、時を経るにつれて赤 黄 紫 黒などの華美な色合で織り成す衣装へと変わってきた。それは、琉球王朝時代の宮廷で重用された色彩に因むのではとも伝わる。

≪京太郎≫(方言:チョンダラー)
隊列の中で、顔は白塗、目眉を黒塗囲み 口を紅塗にして滑稽な振る舞いをする道化役。
その滑稽な動きのなかに、踊り手を鼓舞して盛り上げたり、隊列を整えたりする役目をも果たしている。
ときには、短い口上や滑稽踊りを披露するなどして、観客を隊に招き寄せたりする。
道化役を演じながらも、エイサー隊の重要な先導役を担っている。
チョンダラーは、多人数構成隊形の場合に配属するのが一般的である。

★以前は手踊りエイサーが主流であったが、近年では多人数構成で舞う太鼓エイサーのグループが多くなっている。

〓特異性を伝承するエイサー〓
エイサーは、一般的に男女混成で踊られるが、女性だけ又は男性だけの構成隊形を伝統的に継承している集落・地域がある。

●女性だけのエイサー
沖縄本島北部地域の数箇所の集落で伝承されている。
代表事例として、国頭村与那(よな)集落に伝承される【与那エイサー】を下掲の映像からご覧になれます。
古来から祭事の司りは、女性によって執り行なわれる慣習に基づいているそうです。

●男性だけのエイサー
沖縄本島中部地域の数箇所の集落・地域で伝承されている。
代表事例として、嘉手納町千原(せんばる)郷友会に伝承される
【千原エイサー】を下掲の映像からご覧になれます。

千原集落は嘉手納町に隣接する北谷町に帰属する字区であった。
戦後の米軍嘉手納飛行場敷設のため立ち退きとなった。
各地に散らばった住民達は嘉手納町に公民館を建立し、そこを拠点にして旧来住民間の交流を図るとともに文化継承活動などを行ってきた。
【千原エイサー】の存続は代表的活動の一端である。
今では、沖縄を代表するエイサーとして知られるようになった。

千原は首里王府の士族によって開墾された村落であると伝わる。
そこに居住した士族達がエイサーに興じた。
士族達はエイサーに女性を参加させなかった。
その慣習の名残りが現在まで続いている、珍しいエイサーである。

エイサ~・エイサ・サ~アッサッ!次回に続く
クリック して↓映像をご覧ください
◇千原エイサー
◇与那エイサー

沖縄諸島のエイサー(1)

美ら島沖縄
     ( 画像; 沖縄エイサー )
Nemo2
【 沖縄の祭り 】
『 エイサー 』を探訪しましょう。

〓エイサーの起源と歩み〓
エイサーの沿革
沖縄のお盆は旧暦7月13~15日にとり行われる。
お盆期間には御祓いの舞として欠かせないエイサーが興じられる。
エイサーは各家庭の無病息災、家内安全と繁盛を祈り、祖先の霊を供養する儀典として催行される。

集落の若者(男女)達が 唄って囃して太鼓を打ち鳴らしつ、種々の隊形を組みながら各戸を巡回し、戸口や庭先で舞を披露する。

エイサーの構成には各集落・地域によって固有のスタイルがある。
その伝承に勤めながら催行されているのが一般的である。
ところが近年、
毎年のお盆行事を済ませた後に全島エイサーコンクールなるイベントが開催されるようになって、エイサースタイルに変化が現れてきた。

コンクール出場に向けて、意欲的な若者達は我が陣地に栄耀をもたらさんがため、伝承スタイルに拘りながらも、舞の隊形や衣装などに趣向を凝らした創作を採り入れるようになった。

コンクールは年毎に盛況を博すようになって、沖縄の夏の風物詩と呼ばれるまでになった。
また、観光客の観覧数も増大するようになって、エイサーが県外へ伝播する広がりをみせている。
他都府県の学校運動会などには、学童達が舞うエイサーをプログラムに採り入れている場合が有るとも伝わる。

本来はお盆期間の催行に限られる舞であったが、今では平常時に多くのイベント会場やリゾート施設などで舞われるようになった。
それに伴って、
伝承スタイルを離れて集客効果を意識した衣装や太鼓のパフォーマンスを採り入れ、観せるためのオリジナル・エイサーも出現している。

念仏踊り(エイサー)の起源
エイサーの起源には諸説あって定かではない。
17世紀初頭、沖縄で東北地方出身のお坊さんが浄土宗の布教活動を始めたと伝わる。
そのお坊さんが浄土念仏を布教する為、東北地方で伝わるジャンガラ踊りをヒントにした念仏踊りを創ったやに伝わる。
その唄と踊りがエイサーの原形であると云う説が有力のようである。

念仏踊りの伝播
首里王族と念仏詠唱
お坊さんの評判を伝え聞いた首里の王家や貴族の間で、お坊さんを屋敷に招いて念仏詠唱を詠じらせたそうです。

京太郎達と屋敷町
18世紀中頃から、首里の屋敷町でもお盆の期間に念仏僧を招いて先祖の供養を行なう儀式が催行されるようになったそうです。
形式は門付唄と念仏唄だけで詠じられたそうです。

そのうち屋敷町からの要請が多くなり一人では応えきれなくなった。そこで、お坊さんは京都から数名の太郎を招いて念仏僧の役を担わせた。
その念仏僧のことを京太郎 (方言:チョンダラー) と称する。

京太郎達の活動
京太郎達は首里の町に留まらず他の村々を渡り歩いて念仏踊りを広めたそうです。
首里王府はその活動を黙認していた。
正月には門付けの祝詞を、葬式では鉦や太鼓を打ち鳴らして念仏を唱え舞う。
又お盆には各戸を巡回して祖先の霊を供養し無病息災や家内安全 ・繁盛を祈願して念仏踊りを詠じた。
京太郎達の振る舞いは村人達の評判を呼んだそうです。

★琉球王国の崩壊と文化活動
1871年に明治政府の廃藩置県施策により琉球王国は日本国内の藩の一つに位置づけられた。
それから間もなくの1879年(明治12年)に沖縄県となった。
ここにおいて、尚巴志国王(1429年即位)から約450年間存続した王朝統治の琉球王国は幕を閉じることになった。

明治代の沖縄は統治体制の変革に伴う波乱の時代であった。
文化活動では、これまで王府に庇護されてきた職人・芸人達が自活の道を歩まざるを得なくなった。

彼らは王府内で留まっていた文化諸式を一般庶民に披露し広める事で活路を見出すようになった。

それらの諸式には、舞踊、歌謡、音楽、染織物、焼き物、漆器、料理など多岐のジャンルがあった。
高度な技に裏打ちされた作品・製品は、王府・貴族の司事や外来客の歓待時に活用されてきた。

元王府直属の職人・芸人達が一般庶民相手に繰り広げる美技は、初めて触れる庶民達の感動を呼び起こし評判は大きな広がりを見せた。

若者達と文化活動の広がり
琉球王國の崩壊に伴って、これまで王府内に留められていた文化的産物の全てが露出され、一般庶民でも直に触れる事ができた。
庶民の間では文化的産物に興味を示す人々が多くなった。
なかんずく、最も手近に関心を持ったのが舞踊、歌謡、音楽と云われる。
特に若者達の中からは、観るだけに止まらず自らが演じ創作する活動へ積極的に参画する人々が現れた。

集落・地域にあっては、それまで京太郎達が担っていた念仏踊りなどを若者達が代行して演じるようになった。
従来から地元の祈願式典で執り行なわれてきた祈りの舞に、伝来の民謡などを採り込むスタイルも創出した。

念仏踊りでは、振り付け、衣装、小道具、音出しなどに趣向を凝らした独自スタイルも創作された。
この代に、若者達によって創作された念仏踊りの新たなスタイルが、各集落・地域の特性スタイルとなって今日まで伝承されていると云われる。

若者達の地域活動は念仏踊りつまりエイサーを県内全域に広める礎となった。

地域で育まれるエイサー
集落・地域によって隊形、振り付け、衣装などに特性がある。
また、冠に集落や地域の名を付して称されるのが一般的である。
園田エイサー千原エイサー平敷屋エイサー屋慶名エイサー
喜屋武エイサーなどがよく知られている。

エイサーの語源
エイサーの語源は諸説あって定かではない。
現代ではお盆の時に現世に戻ってくる祖先の霊を供養する為、村々の若者達が唄と囃子に合わせて踊りながら道を練り歩く念仏踊りの事を称してエイサーと呼ぶのが一般的である。
地域によっては七月舞念仏廻りとも呼ばれる。
エイサ~・エイサ・サ~アッサッ!次回に続く
クリック して↓映像をご覧ください

◇園田エイサー
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