( 画像; 多良間島の八月踊 り ) |
【 沖縄の祭り 】 宮古諸島/多良間島の『 八月踊 り 』を探訪しましょう。 〓 多良間島の沿革 〓 多良間島は、宮古諸島圏域に帰属している。 8つの有人島から成っている宮古諸島の最南西に位置している。 ※ 多良間島 多良間島(たらま/面積;19.75k㎡人口;1,300人余)は 宮古島の南西方向約67㎞ 石垣島の東北東方向約35㎞に位置する。 宮古島と石垣島とのほぼ中間に位置し、周囲約30kmほどの平坦な島である。 宮古島からの交通アクセスは、双発プロペラ機で25分である。 海岸線は自然の真白な砂浜が点在し、村落は全体的に濃い緑に包まれて「福木の里」とも呼ばれる。 住民達は悠々の時を長閑に暮らしている。 〓 八月踊り 〓 毎年 旧暦8月8日から3日間にわたって【 豊年祭り 】が催行される。 その昔、島の住民達は「皆納祭り」「八月御願 」とも呼んだ。 祭り期間には、御嶽広場で住民達による【 八月踊り 】が演じられる。 八月踊りでは、地元伝来の地唄や踊りに加えて、琉球王府の宮廷芸能であった「組踊り」や「舞踊」など多数の演目が披露される。 その芸技の運びは、琉球王國時代の宮廷芸能を今に伝える一大絵巻の如きであるとも云われる。 ※ 八月踊りにみる組踊りや古典舞踊 近年では、八月踊りの演目で「組踊りや古典舞踊」が演じられるようになった。 その演舞は、琉球王國時代の宮廷芸能であった。 海外交易の収益で財政豊かにあった王府は、直属の芸人・職人を育成して、司事や賓客歓待などで仕わせた。 明治代になって琉球王國は幕を閉じることになり、それまで宮廷内に留まっていた諸々の芸能が庶民にも触れる事ができるようになった。 (宮廷内で演じられた音楽や舞踊を「古典音楽」「古典舞踊」と称する) 琉球王國閉幕以降から、多良間島の住民達は、組踊りや舞踊などの宮廷芸能を八月踊りの演目に組み入れるようになった。 本来は厳格・優美に演じられる宮廷芸能であるが、島民の生活感や楽天性を滲ませて織り込んだ八月踊りでの芸技は呼び物となっている。 ◆ 皆納祭り その昔、多良間島の豊年祭りは「皆納祭り 」と呼ばれた。 重税納付のために、住民達は日々過酷な労働を強いられた。 住民達は毎年の旧暦7月までに穀物を収穫して、負担税を皆納する事に努め、翌8月には村落の御嶽庭に集って、皆納の御報告と御礼を奉じた。 そして、来る年の豊作を祈願した。 その場では、御嶽の神前で「奉納踊り」を舞うのが儀典となっていた。 住民達が日常の辛苦を御神酒と踊りで癒される唯一の時間であった。 時を経るにつれて、地元伝来の地唄や踊りが演目に加えられるようになって、厳かながらも賑わいのある年中行事の祭りとなった。 〓 豊年祭りが*皆納祭り*とも呼ばれた所以 〓 海外交易から得る莫大な収益を基にして、豊かな経済運営を図ってきた琉球王國は、薩摩藩の侵攻支配に因り、政治的経済的な困窮状態に陥る事になった。 以降、270年間も市民生活は過酷な労苦を強いられ続けることになる。 ※ 琉球王國の全島平定 統一琉球王國は、初代国王:尚 巴志(しょうはっし/1429年即位)から 25代目国王:尚 泰(しょうたい/1879年退位)までの約450年間の長期にわたる王位体制であった。 王位体制創設当初の統括領域は、沖縄本島のみであった。 9代目国王:尚 真(しょうしん/1477~1526年)の代に、宮古・八重山諸島及び周辺離島をも平定して直接統治するようになった。 ここに至って、琉球王府を頂天とする中央集権国家が完成した。 ※ 琉球王國の繁栄 国家的一体化を進めながら、中国、日本、朝鮮、タイなど東南アジア諸国との仲継交易を展開して海洋王国構築への道を推進した。 仲継交易が莫大な財力を生む事に成功して、経済的・政治的に安定した国体維持を図り続けた。 王府には交易に係わる賓客や使節団などが度々訪れるようになった。 来訪者を歓待する用に、王府は音楽・舞踊などの創作活動を推奨した。 蓄財に支えられた文芸活動の謳歌を極める華やかな時代であった。 ※ 薩摩藩の侵攻 13代目国王;尚 寧(しょうねい/1589~1620年)の代になって、国家体制に大きな激震が起きる事になる。 大挙の軍隊を引き連れた薩摩藩に侵攻され占拠された。 (1609年) 以後の琉球王府は、薩摩藩の承諾無しで諸策を進める事が制限された。 薩摩藩の侵攻目的は、琉球國からの蓄財吸い上げと琉球國を介しての中国交易の展開にあった。 薩摩藩は、琉球國の体制を体面的に存続させながら、諸施策を指図して中国との交易を行わせた。 当時の薩摩藩は、中国から交易を断絶されて、藩財政の困窮状態が続いていた。 琉球王府は、拠所としてきた海外交易からの捻出財源を収奪されたうえに薩摩藩への税上納を求められるに至った。 以後、その支配関係が270年間も続けられることになる。 ※ 琉球王府の財政逼迫と人頭税制施行 然る後に、琉球王府は財政困窮状態に陥った。 14代目国王;尚 豊(しょうほう/1621~1640年)は、宮古・八重山諸島及び周辺離島に対して【 人頭税制 】を施行した。 (1637年執行) その制度の税納は穀物で行われたが、後に反物も付加された。 村落の収穫量や住民の身分、性別、年齢によって税の細則等級が決められた。 課税対象者は、15歳から50歳までの全男女に課された。 住民は過重な税負担に苦しむ日常生活に陥るが、特に貧民・病人にとっては余りにも過酷な負担となる重税であった。 この制度は、1903年(明治36年)までの約267年間も続くことになる。 納税に苦しんだ島民の悲劇を記した史書・史跡が数多く現存している。 八月踊りは民間伝承 の 【 国指定重要無形民俗文化財 】である。 |
( 画像; 勢理客の獅子舞 ) |
【 沖縄の祭り 】 沖縄本島/浦添市の『 勢理客の獅子舞 』を探訪しましょう。 〓 浦添市の沿革 〓 浦添市(うらそえ/面積:19.09K㎡ 人口:110,500人余)は 那覇市の北辺に隣接して那覇市から延びる市街化が進んでいる。 南側の那覇市及び北側の宜野湾市(ぎのわん/面積:19.70K㎡ 人口:92,800人余)と連動した沖縄県の核となる市街地帯である。 県内外の主な商工業が集積して都市化現象が顕著である。 〓 琉球史にみる浦添〓 その昔の琉球は、島内各地に勢力を張る豪族達によって分割統治される状態にあった。 勢力拡大を図らんとする、豪族間での争いが絶え間なく起きた。 長期にわたる群雄割拠を繰り返えしているなかで、次第に3大勢力に収束されるようになった。 その3大勢力の統治範囲と本拠地 ・ 北部域(北山/本拠:今帰仁城) ・ 中部域(中山/本拠:浦添城) ・ 南部域(南山/本拠:大里城) 統治領域名称を北山、中山、南山と呼ばれた。 それを琉球史における時代区分で「 三山時代 」と称している。 1322年頃から1429年まで、三山体制の統治が続いたと伝わる。 なかでも「 中山/本拠:浦添城 」は強大な勢力を保持していた。 三山体制は沖縄本島のみの分割統治であり、宮古や八重山諸島などには及んでいなかった。 ★ 三山時代の浦添 中山は、舜天(しゅんてん)を祖する系統、英祖(えいそ)を祖する系統及び察度(さっと)を祖する系統の領主達によって治められた。 うち、英祖と察度系統の領主は浦添城を本拠とした。 浦添城は13世紀頃に築城されていたと伝わる。 三山体制は、しばらくの安寧を維持した。 ところが、 最大勢力を誇ってきた中山が領主:武寧(ぶねい:察度の子息)の代に他領地の豪族:尚巴志(しょうはっし)によって淘汰された。 尚巴志は南山の一区域を居所(佐敷城)とする豪族であった。 中山の領主:武寧が住民に離反する統治を続けて孤立化し、組織的弱体化を招いているのを見計らうや討伐を図り成功をおさめた。(1405年) 尚巴志は中山の領主に父の尚思紹を就任させて、自らは本島統一の段取りに執りかかった。 ★ 浦添は琉球王朝発祥の地 尚巴志は1416年に北山を、そして1429年には南山をも手中に収めて本島の平定を果たした。 そして、想い描いた【 統一琉球王國 】を創設した。 王位を頂天とする王朝統治体制を敷設して、その初代国王には尚巴志自らが即位した。(1429年) まもなく、 王府を浦添(浦添城)から首里(首里城)に移転した。 以降の琉球王國は25代目国王:尚泰(しょうたい/1879年退位)までの長期にわたり王朝時代が続いた。 浦添市の歴史は古く、琉球王朝発祥の地と伝わる。 浦添の名称由来は「 津々浦々を支配する 」の意から転じたとされる。 〓 勢理客の獅子舞 〓 勢理客(じっちゃく/面積:0.85K㎡ 人口:4,500人余)は 浦添市の数ある字区のうちの一区画である。 毎年旧暦8月15日満月の夜に勢理客自治会主催の獅子舞が演じられる。 400年以上の歴史を持つ勢理客の獅子舞は舞の型が13種類もあると云われる。 舞のステージでは、狂言者がドラや太鼓、笛、ホラ貝などで獅子を誘い出して舞わせる。 獅子は、後ろ足で立ち上がったりしてのパフォーマンスを繰り広げるが、その大きく踏み込む足運びの諸動作に特徴があると云われる。 古代の型を変えずに伝承している事が評価されて 【 国指定重要無形民俗文化財 】 となった。 獅子の素材: 頭は、材質の軽い梯梧(デイゴ)の木で造作 胴体は、シュロ縄を編み、それに芭蕉や苧麻の繊維をシャリンバイで染色して毛にする。 ※ 沖縄の獅子舞 獅子舞は古くから県内各地の村落などで豊年祭や厄払いの祈願行事を執り行なう時に演じられる。 豊年祭では第一番目の演目として披露され、座を清めると伴に邪気を払うとされる。 獅子を舞わすことによって悪霊を払い、五穀豊饒を招来して人々に繁栄がもたらされるとされる。 |
( 画像; 那覇大綱挽 ) |
【 沖縄の祭り 】 沖縄本島/那覇市の『 那覇大綱挽 』を探訪しましょう。 ◎ 県都/那覇市 那覇市は東西10km南北8kmに広がる街で、人口31万余人が居住する。沖縄県の政治・経済・文化活動の中心となっている県都です。 ◎ 那覇まつり 毎年10月上旬に県下最大の祭り【 那覇まつり 】が開催される。 三日間に亘り、様々な団体・企業・芸能保存会などによるイベントが繰り広げられる。 なかでも最大の呼物が「那覇大綱挽」である。 〓 那覇大綱挽 〓 大綱挽イベントは、祭り二日目の午後から執り行われる。 二日目の朝一番には、国道久茂地街路に巨大綱が忽然と現れる。 ★ 大綱の規格 本綱の長さ100m×2/直径1.56m/総重量45トン 本綱は、雄綱と雌綱からなる。 本綱には、長さ約7mの枝綱が300×2本程付いている 挽き手は、本綱から伸びる枝綱を手にして挽く 綱の材料は米藁(ワラ) 綱の製作には20人がかりで40日間程かかると云われる。 ★ 勝負判定基準 挽きは1回限り、制限時間30分 勝ち→ 5m挽き寄せた側 判定勝ち→ 3m以上5m未満を挽き寄せた側 引分け→ 3m未満 ★ 組分け 那覇市に数多くある自治会を、東・西の二組に分ける。 市内在住者の多くは、基本的に居住している自治会側に参加する。 市外・県外・海外からの来場者は、どちらの側にでも気軽にフリーハンドで参加できます。 その場合、人数が偏らないように競技実行委員会からの誘導があります。 ◆ 大綱の製作と綱挽き広場の設置 製作は「那覇大綱挽保存会」のメンバーが中心となって進められる。 毎年、米藁(ワラ)を素材にした新しい綱が編まれる。 巨大な綱だけに港の広い荷捌場を製作ヤードとして使用している。 綱挽き広場の設置は 前日の深夜から国道久茂地街路の約1.5km区間が交通規制される。 綱挽き供与として移動可能式に布設された中央分離帯をフォークリフトで移動する。 中央分離帯が撤去されて仮設広場となった街路に 製作ヤードからロング・トレーラに積載されて着た大綱を、大型クレーンで任意の位置に吊り降ろす。 深夜から朝方にかけての大掛かりな作業で、大綱の設置が終了する。 ◆ 県下最大の祭りイベント 綱の挽き手挑戦者が約1万6千人、沿道の観衆を含めると約29万人もの人々が参加する大イベントです。 当日は、挽き手としてチャレンジしたい、又は直に観戦したいと志す人々で街路広場が埋め尽くされます。 「ハーイヤッ! ハーイヤッ!」の掛け声で挽き合うが 挽き初めの暫らくは、全員の呼吸が不揃い故、綱は全く動かない状態が続き、挽き手の両腕にシビレ感が走る困憊に陥ってしまう。 孤軍奮闘する自らの無力さを痛感させられる一時である。 綱が僅かながら動き始めるのは、全員の呼吸が一致した時からである。その時の喜こびと発揚感は、挽き手に更なる力が湧き出して格別である。 呼吸が合って挽く景観は、うねる荒波の如きに壮大なパノラマを呈する。 那覇大綱挽は沖縄の【秋の風物詩】として、県民市民が誇らかに高揚するイベントである。 〓 ギネス認定の大綱 〓 ≪米藁で製作された世界一の綱≫として、1995年にギネス認定された。 ※那覇大綱挽は、なぜ 「引」 ではなく 「挽」 なの? 大衆によって力強く引っ張られる巨大な綱が、ギッギッギュッと地面を擦りながら動く様子から「挽」の字を用いるようになったと伝わる。 ★ 平成21年の那覇まつり 10月10日(土)から12日(月)迄の三日間 大綱挽は11日(日)の午後 ※参照→ 詳細は那覇市観光協会公式サイト 那覇ナビ をご覧ください。 |
( 画像; エイサー太鼓 ) |
【 沖縄の祭り 】 『 エイサー 』を探訪しましょう。 〓エイサーの伝承は青年会活動〓 エイサーは、元来、お盆期間に各家庭の無病息災、家内安全と繁盛を祈り、祖先の霊を供養する儀典として催行される。 各集落・地域によって、その形態に特異性を有して伝承されている。 メンバーは、基本的に該地域の青年男女で構成され、青年会のボランティア活動で催行される。 ところによっては、巡回する各家庭から「志の寄付金」を頂いて、活動資金に充てるグループもある。 青年達は、毎年お盆の2ヶ月程前になると、勤めを終えた夕刻から最寄の公民館や広場に集って毎日の稽古に励む。 その時節は、夕暮れ時のここかしこから太鼓の音が響いてくる。 〓エイサースタイルの変遷〓 本島中部地域は青年会のエイサー活動が最も盛んな所である。 本年(2009年)で54回の開催となった全島エイサーまつり/旧:全島エイサーコンクールは、コザ市(現:沖縄市)の青年会が中心になっての取り組から始まった。 毎年お盆明けの最初の週末に、各地から選抜されたエイサー隊が一堂に集いて、互いの演舞を競い合うイベントである。 今では、県外や海外からもエイサー隊が参加するようになり、県下最大のエイサーイベントに成長した。 毎年20万人余の観客で賑わう沖縄の夏の風物詩と呼ばれる。 全島エイサーまつりを重ねる毎に、伝来のエイサー形態が、その隊形、振り付け、衣装、大・小道具、音出しなどに変化を見せ始めた。 祈願を旨とするエイサーから観せるエイサーを意識したパフォーマンスの採り入れである。 各集落・地域の伝統エイサーを継承するグループは、基本スタイルを護持しながらも、隊形、振り付け、鳴り物などに多少なりの新たな趣向を採り入れるようになった。 また、琉球國まつり太鼓グループに代表される如く、祈願のエイサーから離れて、完全に観せるエイサーに徹したエンターティメントとしての創作エイサーも現れるようになった。 ●琉球國まつり太鼓 伝来の太鼓エイサーを基本にしたフォーメイションの創作舞である。 空手の型を採り入れ、独創性豊かで勇壮な舞は大人気である。 1982年、沖縄の若者達により太鼓集団として結成された。 沖縄県に本部を置いて、県外・海外に数多くの支部を設けている。 その活動概要を 琉球國まつり太鼓 のホームページから抜粋して複写掲載します。 ***************************************************** 2009年現在の会員数は 沖縄県内に 名護、宜野座、うるま、沖縄、西原、与那原、那覇、豊見城、糸満、石垣、宮古の11支部約300名、 県外では 北海道、長野、東京、埼玉、神奈川、岐阜、愛知、栃木、滋賀、 京都、奈良、兵庫、大阪、香川、愛媛、徳島、広島、長崎、 熊本、 天草、福岡、柳川、大分、佐賀、宮崎、鹿児島(沖永良部)、 そして海外では アメリカ(ワシントンD.C、ロサンゼルス、テキサスヒューストン、ノースカロライナジャクソンビル、ハワイ) ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、メキシコにも支部がある。 総勢約1500名あまりの世界規模での広がりを見せています。 活動も沖縄県内のイベントはもちろん、県外、海外でも活動を広げ、 東京国立劇場やニューヨークカーネギーホールといった大舞台をはじめ、ヨーロッパ、オーストラリア、シンガポール、インドネシア、中国、台湾など国際的にも活躍しています。 98年2月には「長野オリンピック文化芸術祭」、 同年8月にはアルゼンチンにて開催された 「沖縄県人南米移住90周年記念祭」にも沖縄から30名のが参加 さらに2005年8月には、日本では35年ぶりとなる国際博覧会 「愛知万博 愛・地球博」の公式イベント”地球大交流祭”に、 7日間の日程で参加。 愛・地球広場のメインステージにて 連日1時間にわたる公演を行いました。 会員一同 沖縄の文化を世界にと、新たなる感動の創出に取り組んでいます。 ***************************************************** 〓沖縄で毎年開催される主なエイサーイベント〓 島や地区単位での開催は数多くあります。 秋の運動会では、多くの学校がプログラム化しています。 参集範囲を広げた大規模な催行物としては、次のイベントがある。 ★夏祭りin那覇 1万人のエイサー踊り隊 ・会場:那覇市国際通り(約1.5km) ・時期:八月上旬 県内各地の伝統エイサー、創作エイサー、子供エイサー、各種団体のエイサーなどが出演する。 県外から よさこい踊り、よさこいソーラン踊り隊などもゲスト出演する。 また、海外からのエイサー隊も出演する。 総じて1万人の踊り隊が国際通りを舞いながら練り歩く。 ★青年ふるさとエイサー祭り ・会場:各地の総合運動公園(年毎に決める) ・時期:八月下旬 県青年連合会主催で、各地の青年会エイサー隊が一堂に集う。 ★全島エイサーまつり ・会場:沖縄市総合運動公園 ・時期:お盆後の週末3日間(沖縄のお盆は、旧暦7月13~15日) 県内各地選抜の青年会や団体のエイサー隊が意気盛んに舞う。 全国の姉妹都市や協賛団体からのゲスト出演もある。 琉球國祭り太鼓や子供エイサーなども出演する。 ここでも、世界の沖縄県人会ネットワークを通しての海外グループの参加がある。 また、在沖米軍基地に駐留する軍人メンバーの参加もある。 県内で最大規模のエイサーイベントである。 |
エイサー編 The End! |
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◇琉球國まつり太鼓 |
( 画像; 沖縄エイサー ) |
【 沖縄の祭り 】 『 エイサー 』を探訪しましょう。 時を経るなかで、隊形、振り付け、衣装、大・小道具、音出しなどに趣向性を採り入れて変化して来たエイサーのスタイル沿革を概述してみます。 〓エイサーの形態〓 演舞の形態には、【手踊りエイサーと太鼓エイサー】がある。 ●手踊りエイサー 踊り手の輪の中で唄い手が唄い、それに応えて踊り手が囃子を唄う。 三味線の伴奏を付して男女で踊るのと、手持ちの締太鼓で調子音を入れながら女性のみで踊る形態がある。 ●太鼓エイサー 唄・三味線の演唱を付して、踊り手が太鼓をバチで叩きながら舞う。 用いられる太鼓の形は、大太鼓/締太鼓/パーランクーの3種がある。 太鼓を持って舞うのは基本的に男性である。 太鼓を纏いながらの舞いは、身体を捻る・しゃがむ・飛ぶ・回転するといった激しいアクションをみせる。 男女混成隊形で舞う場合の女性の役目は、手踊りと囃子唄いにある。 現代では、男女混成隊形で舞うのが殆どであり、その形態を指して 「エイサー」と呼んでいるのが一般的である。 集落や市街地の路地を、多人数の青年男女が隊列を整えながら、唄い、舞い、鳴り物入りで練り歩く光景は優雅であり壮観である。 ≪エイサーで使用される道具・衣装など≫ ◇旗頭 隊の地元である集落・地域名を染め入れた旗 隊の先頭に掲げて、「我らここに在り」を誇示する。 ◇大太鼓 直径:50cm 丈:50cm程の木胴筒に両面革張り 力強さを響かせながら隊の先陣を練る。 ◇締太鼓 直径:30cm丈:10cm程の木胴筒に両面革張り リズム感と躍動感のある響きで隊を導く。 ◇パーランクー 直径:20cm程の木胴筒に片面革張り リズミカルで軽快な響きで隊の躍動感を醸す。 ◇その他の小道具 隊によっては四つ竹、手拭、扇などを採り入れている。 ◇地方(ぢかた) 唄・三味線を演唱する。 演唱される曲目は、基本的に地元伝来の地唄を奏でる。 次々に繰り出す演唱が太鼓舞いや踊り手に快活感を注ぐ。 沖縄民謡は、唄と三味線が絃声一体になって演じられ、 【唄三味線の音楽】と云われる。 その弾き語りのスタイルは、現在でも伝承されている。 ◇衣装 男性:木綿の白長袖シャツに白股引き、脚絆など 女性:浴衣や絣の装い。 その昔の衣装は、男女ともに芭蕉布織の絣に鉢巻きスタイルであったが、時を経るにつれて赤 黄 紫 黒などの華美な色合で織り成す衣装へと変わってきた。それは、琉球王朝時代の宮廷で重用された色彩に因むのではとも伝わる。 ≪京太郎≫(方言:チョンダラー) 隊列の中で、顔は白塗、目眉を黒塗囲み 口を紅塗にして滑稽な振る舞いをする道化役。 その滑稽な動きのなかに、踊り手を鼓舞して盛り上げたり、隊列を整えたりする役目をも果たしている。 ときには、短い口上や滑稽踊りを披露するなどして、観客を隊に招き寄せたりする。 道化役を演じながらも、エイサー隊の重要な先導役を担っている。 チョンダラーは、多人数構成隊形の場合に配属するのが一般的である。 ★以前は手踊りエイサーが主流であったが、近年では多人数構成で舞う太鼓エイサーのグループが多くなっている。 〓特異性を伝承するエイサー〓 エイサーは、一般的に男女混成で踊られるが、女性だけ又は男性だけの構成隊形を伝統的に継承している集落・地域がある。 ●女性だけのエイサー 沖縄本島北部地域の数箇所の集落で伝承されている。 代表事例として、国頭村与那(よな)集落に伝承される【与那エイサー】を下掲の映像からご覧になれます。 古来から祭事の司りは、女性によって執り行なわれる慣習に基づいているそうです。 ●男性だけのエイサー 沖縄本島中部地域の数箇所の集落・地域で伝承されている。 代表事例として、嘉手納町千原(せんばる)郷友会に伝承される 【千原エイサー】を下掲の映像からご覧になれます。 千原集落は嘉手納町に隣接する北谷町に帰属する字区であった。 戦後の米軍嘉手納飛行場敷設のため立ち退きとなった。 各地に散らばった住民達は嘉手納町に公民館を建立し、そこを拠点にして旧来住民間の交流を図るとともに文化継承活動などを行ってきた。 【千原エイサー】の存続は代表的活動の一端である。 今では、沖縄を代表するエイサーとして知られるようになった。 千原は首里王府の士族によって開墾された村落であると伝わる。 そこに居住した士族達がエイサーに興じた。 士族達はエイサーに女性を参加させなかった。 その慣習の名残りが現在まで続いている、珍しいエイサーである。 |
エイサ~・エイサ・サ~アッサッ!次回に続く |
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◇千原エイサー | ◇与那エイサー |
( 画像; 沖縄エイサー ) |
【 沖縄の祭り 】 『 エイサー 』を探訪しましょう。 〓エイサーの起源と歩み〓 ◆エイサーの沿革 沖縄のお盆は旧暦7月13~15日にとり行われる。 お盆期間には御祓いの舞として欠かせないエイサーが興じられる。 エイサーは各家庭の無病息災、家内安全と繁盛を祈り、祖先の霊を供養する儀典として催行される。 集落の若者(男女)達が 唄って囃して太鼓を打ち鳴らしつ、種々の隊形を組みながら各戸を巡回し、戸口や庭先で舞を披露する。 エイサーの構成には各集落・地域によって固有のスタイルがある。 その伝承に勤めながら催行されているのが一般的である。 ところが近年、 毎年のお盆行事を済ませた後に全島エイサーコンクールなるイベントが開催されるようになって、エイサースタイルに変化が現れてきた。 コンクール出場に向けて、意欲的な若者達は我が陣地に栄耀をもたらさんがため、伝承スタイルに拘りながらも、舞の隊形や衣装などに趣向を凝らした創作を採り入れるようになった。 コンクールは年毎に盛況を博すようになって、沖縄の夏の風物詩と呼ばれるまでになった。 また、観光客の観覧数も増大するようになって、エイサーが県外へ伝播する広がりをみせている。 他都府県の学校運動会などには、学童達が舞うエイサーをプログラムに採り入れている場合が有るとも伝わる。 本来はお盆期間の催行に限られる舞であったが、今では平常時に多くのイベント会場やリゾート施設などで舞われるようになった。 それに伴って、 伝承スタイルを離れて集客効果を意識した衣装や太鼓のパフォーマンスを採り入れ、観せるためのオリジナル・エイサーも出現している。 ◆念仏踊り(エイサー)の起源 エイサーの起源には諸説あって定かではない。 17世紀初頭、沖縄で東北地方出身のお坊さんが浄土宗の布教活動を始めたと伝わる。 そのお坊さんが浄土念仏を布教する為、東北地方で伝わるジャンガラ踊りをヒントにした念仏踊りを創ったやに伝わる。 その唄と踊りがエイサーの原形であると云う説が有力のようである。 ◆念仏踊りの伝播 ○首里王族と念仏詠唱 お坊さんの評判を伝え聞いた首里の王家や貴族の間で、お坊さんを屋敷に招いて念仏詠唱を詠じらせたそうです。 ○京太郎達と屋敷町 18世紀中頃から、首里の屋敷町でもお盆の期間に念仏僧を招いて先祖の供養を行なう儀式が催行されるようになったそうです。 形式は門付唄と念仏唄だけで詠じられたそうです。 そのうち屋敷町からの要請が多くなり一人では応えきれなくなった。そこで、お坊さんは京都から数名の太郎を招いて念仏僧の役を担わせた。 その念仏僧のことを京太郎 (方言:チョンダラー) と称する。 ○京太郎達の活動 京太郎達は首里の町に留まらず他の村々を渡り歩いて念仏踊りを広めたそうです。 首里王府はその活動を黙認していた。 正月には門付けの祝詞を、葬式では鉦や太鼓を打ち鳴らして念仏を唱え舞う。 又お盆には各戸を巡回して祖先の霊を供養し無病息災や家内安全 ・繁盛を祈願して念仏踊りを詠じた。 京太郎達の振る舞いは村人達の評判を呼んだそうです。 ★琉球王国の崩壊と文化活動 1871年に明治政府の廃藩置県施策により琉球王国は日本国内の藩の一つに位置づけられた。 それから間もなくの1879年(明治12年)に沖縄県となった。 ここにおいて、尚巴志国王(1429年即位)から約450年間存続した王朝統治の琉球王国は幕を閉じることになった。 明治代の沖縄は統治体制の変革に伴う波乱の時代であった。 文化活動では、これまで王府に庇護されてきた職人・芸人達が自活の道を歩まざるを得なくなった。 彼らは王府内で留まっていた文化諸式を一般庶民に披露し広める事で活路を見出すようになった。 それらの諸式には、舞踊、歌謡、音楽、染織物、焼き物、漆器、料理など多岐のジャンルがあった。 高度な技に裏打ちされた作品・製品は、王府・貴族の司事や外来客の歓待時に活用されてきた。 元王府直属の職人・芸人達が一般庶民相手に繰り広げる美技は、初めて触れる庶民達の感動を呼び起こし評判は大きな広がりを見せた。 ◆若者達と文化活動の広がり 琉球王國の崩壊に伴って、これまで王府内に留められていた文化的産物の全てが露出され、一般庶民でも直に触れる事ができた。 庶民の間では文化的産物に興味を示す人々が多くなった。 なかんずく、最も手近に関心を持ったのが舞踊、歌謡、音楽と云われる。 特に若者達の中からは、観るだけに止まらず自らが演じ創作する活動へ積極的に参画する人々が現れた。 集落・地域にあっては、それまで京太郎達が担っていた念仏踊りなどを若者達が代行して演じるようになった。 従来から地元の祈願式典で執り行なわれてきた祈りの舞に、伝来の民謡などを採り込むスタイルも創出した。 念仏踊りでは、振り付け、衣装、小道具、音出しなどに趣向を凝らした独自スタイルも創作された。 この代に、若者達によって創作された念仏踊りの新たなスタイルが、各集落・地域の特性スタイルとなって今日まで伝承されていると云われる。 若者達の地域活動は念仏踊りつまりエイサーを県内全域に広める礎となった。 ◆地域で育まれるエイサー 集落・地域によって隊形、振り付け、衣装などに特性がある。 また、冠に集落や地域の名を付して称されるのが一般的である。 園田エイサー、千原エイサー、平敷屋エイサー、屋慶名エイサー 喜屋武エイサーなどがよく知られている。 ※エイサーの語源 エイサーの語源は諸説あって定かではない。 現代ではお盆の時に現世に戻ってくる祖先の霊を供養する為、村々の若者達が唄と囃子に合わせて踊りながら道を練り歩く念仏踊りの事を称してエイサーと呼ぶのが一般的である。 地域によっては七月舞/念仏廻りとも呼ばれる。 |
エイサ~・エイサ・サ~アッサッ!次回に続く |
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◇園田エイサー |
( 画像; Dear.NemoTyan ) |
【 美ら島沖縄 ver.4 】 『 八重山諸島 』を散策しましょう。 本編では八重山諸島を散策します。 ◇八重山諸島の帰属市町村 石垣市 竹富町 与那国町の1市・2町がある。 総面積581.70km²、総人口約5万4千人 〓八重山諸島〓 沖縄県で最も離島の数が多い地域である。 主なところでも石垣島、竹富島、西表島、由布島、小浜島、黒島 波照間島、鳩間島、与那国島などがある。 尖閣諸島もこの地域に帰属する。 与那国島は日本最西端、波照間島は有人島での最南端である。 ※石垣島 面積;222.64k㎡ 人口;48,700余は 沖縄本島の南西方約410kmに位置する。 八重山諸島の総人口約54,000人の内の殆んどが此の島に居住 している。 八重山諸島の政治、経済、教育、交通などの中心地である。 島の中央やや北方に標高526mの於茂登岳(おもと)がある。 この山は沖縄県の最高峰である。 島の周辺海域はサンゴ礁が広がつており平野、山、海が織りなす 自然景観は変化に富んでいて美しい眺めである。 年間入域観光客数は78万人を超える。 空港・港湾ともにCIQ(税関、出入国、検疫)施設がある。 台北まで約250kmの距離にあり台湾からの豪華クルーズ船や チャータ航空便が度々往来している。 世界的に知られるClub Med(地中海クラブ)がある。 この社は世界中約30ヵ国、100ヵ所のリゾート施設を運営してい るが、日本では石垣島と北海道(サホロ)にあるのみです。 ※竹富町管轄域 竹富町役場の管轄圏域には10の有人島と2つの無人島がある。 その他にも岩礁が数々点在する。 ≪有人島≫ 竹富島、西表島、由布島、小浜島、黒島、波照間島、鳩間島 嘉弥真島、新城島(上地)、新城島(下地) ≪無人島≫ 内離島、外離島 少数人口の島群である故、役場本庁舎は石垣市にある。 石垣島をハブ港とした交通アクセスネットワークが整備されている。 各島々と石垣島間には高速フェリーが頻繁に往来している。 ・竹富島 面積;5.42k㎡ 人口;330人余は 石垣島の西方約5.7㎞の隣接距離にある。 周りは浅瀬の海域でありエメラルドグリーンの海原が広がる。 四方には西表島、小浜島、黒島や石垣島の島影が眺望できる。 ・西表島 面積;289.27k㎡ 人口;2,300人余は 沖縄本島に次ぐ面積を有する島である。 島の90%は亜熱帯の原生林に覆われて山の腹部が海岸間際まで 伸びている。居住地は狭隘な平地に限られている。 手付かずの自然が大規模にあり熱帯系の動植物が生息している。 最近ではエコツーリズムの観光者が漸増している。 ・波照間島 面積;12.77k㎡ 人口;560人余は 日本最南端に位置する。 南十字星を最もよく見る事ができる。 ※与那国島 面積;28.91k㎡人口;1,650人余は 日本最西端の島である。 石垣島から西方約124kmに位置する。 石垣島からの航空路で所要時間30分である。 台湾までの距離が直線で約110kmの至近にある。 年に幾度かは水平線の彼方に台湾連峰の姿が眺望できる。 まさに国境の島である。 ◇八重山諸島のビユーポイント 1.唐人墓 2.宮良殿内 3.桃林寺 4.川平湾 5.マリユドゥの滝 6.サキシマスオウノキ群落 7.与那国馬 8.軍艦岩 9.アンガマ 10.節祭り |
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◇八重山諸島散策 |
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【 美ら島沖縄 ver.3 】 『 宮古諸島 』を散策しましょう。 本編では宮古諸島を散策します。 ◇宮古諸島の帰属市町村 宮古島市 多良間村の1市・1村がある。 総面積225.65km²、総人口約5万6千人 以前は1市3町2村であったが 平成17年10月の市町村合併をもって1市1村となった。 〓宮古諸島〓 沖縄本島の南西方約300km 石垣島の東北東方約133㎞に位置する。 8つの有人島から成る。 宮古島 池間島 大神島 来間島 伊良部島 下地島 多良間島 水納島 その中核は宮古島である。 宮古島と池間島 来間島の間は橋梁で連結されている。 伊良部島も2012年の架橋開通に向けて施工中である。 近い将来は宮古島 大神島 多良間島 水納島の離島群で形成 されるようになる。 宮古諸島の自然概観に共通する事は平坦地であって毒蛇ハブ が生息していないことである。 ※宮古島 山も川も無い平坦な島 最高峰で海抜113mの丘陵である。 島全体の被服土壌が浅く下層は琉球石灰岩で形成される。 石灰岩の浸透性が早いため雨水は短時間で海へ注ぐ。 故に海岸沿いは湧き水箇処が多い。 多量の濾過水が注がれる海の透明度は高くて エメラルドグリーンの煌めく海洋の広がりは美しい。 沿岸ビーチの砂は真白に輝き「白い宝石」と称される。 ※伊良部島(いらぶ) 面積;28.08k㎡ 人口;6,200人余は 宮古島から約7.3㎞の隣接距離に位置する。 神秘性に富んだ自然景観の多い島である。 ※多良間島(たらま) 面積;19.75k㎡人口;1,300人余は 宮古島の南西方約67㎞ 石垣島の東北東方約35㎞に位置する。 島の北方約8㎞に水納島(みんな)がある。 面積;2.15k㎡人口;5人 〓宮古諸島の見所・聞き所〓 ※仲宗根豊見親の墓(宮古島) 15世紀末頃に宮古島の支配者として君臨した豪族の墳墓 その築造仕様が貴重な歴史的遺産とされる。 ※久松五勇士顕彰碑(宮古島) 日露戦争の最中にバルチック艦隊(ロシア)が日本本土へ向け て北上するのを久松集落の住民が発見した。 その様子を本国へ知らせるべく住民協議に諮った。 そこで集落の漁夫5人を電信施設がある石垣島に派遣する事 を決めた。 漁夫達は小舟を繰り出して1昼夜漕いで石垣島に 辿り着き、「敵艦発見」の打電を東郷大将率いる連合艦隊へ 送信する事に成功したと伝わる。(明治38年) 顕彰碑は勇敢な漁夫達の壮挙を讃えて建立された。 ※人頭税石(宮古島) 琉球王府は中国 日本 朝鮮 タイ等東南アジア諸国との海外 交易で莫大な財力を生む事に成功して体制安定を続けていた。 ところが、13代国王;尚 寧(1589~1620年)の代になって 薩摩軍が多勢の軍と多量の武器・軍艦を持って急襲してきた。 武器を持たない琉球王府は瞬く間に制圧され占拠された。 侵攻目的は琉球國を介しての中国交易の展開にあった。 薩摩藩に蓄財を吸い上げられる琉球王府は忽ちに財政困窮 状態に陥った。 その対応策として14代国王;尚 豊(1621~1640年)は 宮古と八重山諸島の住民に対して人頭税納付を施行した。 課税対象者は15~50歳の全男女であった。 税納は穀物と反物でもって行われた。 村落の収穫量や住民の身分 性別 年齢によって税の細則等級 が決められて余りにも過酷な負担となる重税であった。 人頭税制は1637年に執行されて1903年に廃止された。 長期間続いた税制は他所では例を見ない悪税であった。 人頭税石は賦計り石とも呼ばれる高さ1.43mの石柱で、 この石柱の高さ以上の背丈になると税が課せられたと伝わる。 ※八月踊り(多良間島) 多良間島の伝統芸能 (国指定重要無形民俗文化財) 旧暦の八月に催される豊年祭である。 五穀豊穣を感謝して各御嶽へ報告し来る年の豊作を祈願する。 祭事で披露される棒踊り 組踊り 舞踊 獅子舞などの伝統芸能が 古式の琉球王朝時代を彷彿とさせると云われる。 起源は定かではないが、別称「皆納祝い/八月御願」とも云う。 過酷な人頭税制に苦しむ住民達が7月には税を皆納し、翌八月 には住民達がこぞって一堂に会して労苦を慰め喜び合い、翌年の 豊年を祈願したのが年中行事化したのではないかと伝わる。 ※パーントゥ(宮古島) パーントゥ(方言)とは鬼 妖怪の意 旧暦9月に催行される祭りである。 男三人が聖地の井戸から泥を汲み出して自らの全身に塗りたくる。 伝承の仮面を被ったその男達が頭にススキの作り物を被り全身は 蔓草で巻きつけて鬼神に扮する。 全身泥だらけの神になる。 鬼神は集落の屋内外をくまなく廻りながら出会う人々に容赦なく 泥を塗りつける。 時には新築の家にも上がり込んで部屋の壁など にも泥塗りする。 普段は静かな集落も逃げ惑う人々の悲鳴と歓声が響き渡る。 人・物に泥を塗って悪霊を払い無病息災をもたらすとされる。 ※博愛記念碑(宮古島) ドイツ商船ロベルトソン号は濠州へ向う途中台風にあって漂流 宮古島沖合で座礁して難破した。 島の人々は夜通しかがり火を焚いて励まし、翌朝荒天をついて 乗組員8人を救助した。1873(明治6)年 その後1ヶ月間程に亘って持成し、官船を与えて帰国させた。 後にこの事を知った当時のドイツ皇帝ウイルヘルム一世は 島の人々の勇気と博愛の精神を称えて、軍艦チクローブ号を 派遣して記念碑を建立した。1876(明治9)年 其の他小規模テーマパークドイツ文化村もある。 ドイツのマルクスブルク城を再現した記念館 本物のベルリンの壁が展示されているなどドイツの文化に 触れることが出来る。 ドイツからの親善大使も来島する。 ※宮古諸島のビユーポイント 1.人頭税石 2.仲宗根豊見親の墓 3.砂山ビーチ 4.久松五勇士顕彰碑 5.東平安名崎 6.多良間神社 7.ウプメ-カ 8.パ-ントゥ 9.八月踊り |
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◇宮古諸島散策 |
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【 美ら島沖縄 ver.2 】 『 沖縄本島周辺諸島 』を散策しましょう。 〓沖縄県域の離島群〓 県域の離島群は次の五区分の囲みで呼称される。 ①沖縄本島周辺諸島 ②大東諸島 ③宮古諸島 ④八重山諸島 ⑤尖閣諸島 ※参照 沖縄県圏域概図
離島は大方三区分されて呼称される。 ①沖縄本島周辺諸島 ②宮古諸島 ③八重山諸島 この編では沖縄本島周辺諸島をとりあげます。 ◇沖縄本島周辺諸島と帰属市町村 久米島町 渡嘉敷村 座間味村 粟国村 渡名喜村 伊平屋村 伊是名村 伊江村 南大東村 北大東村の1町・9村がある。 総面積200.8km²、総人口約2万2千人 沖縄本島をハブとしたアクセスネットワークを形成している。 ※慶良間諸島 座間味村と渡嘉敷村の島々群を指して慶良間諸島と称する。 別称ケラマと呼ばれる。 沖縄本島(那覇市)の西方海上に点在する大小20余りの島々。 ケラマの姿は那覇市の西海岸から目視できる。 諸島の内で大きい島は渡嘉敷島と座間味島である。
が、日本領土である慶良間諸島へ上陸進攻する事から始まった。 無防備状態の慶良間諸島住民は過大な戦渦を被る事になった。 60余年前には、幾十もの米軍戦艦に囲まれた慶良間諸島。 今では島周辺を数々のレジャーボートで華やいでいる。 ケラマの海は世界でも有数の透明度を誇ると云われる。 サンゴ礁とエメラルドグリーンの海面が織り成す絶妙のコントラスト が眺むる心を癒しの空間へと誘う。 ダイビングなどマリンスポーツの海として定着している。 近年ではホエールウォッチングの海としても脚光を浴びている。 近海には毎年クジラ達が遠い北極の海からやってきます。 暖かい海で、繁殖 出産 子育てをするためだそうです。 その時期が1~3月頃です。 ホエールウォッチングの様子をから ご覧ください! ※久米島 那覇市の西方約97.5Kmに浮かぶ島。 那覇空港から所要時間約25分である。 歴史的遺産が多く残されている島である。 海浜の美しさには感動・感激を覚える。 ・ハテの浜 真っ白い砂のみが浮かぶホワイトアイランドである。 7~11kmも細長く伸びた白砂とコバルトグリーンの世界。 ・イーフビーチ 日本の「渚100選」に選ばれた長さ2kmのホワイトビーチ。 ・五枝の松 樹齢250年余の琉球松。 幹周り約4.3m 高さ約6m 広がる枝ぶり250㎡と云われる。 国指定天然記念物である。 ・畳石 直径1~2mの五角形・六角形の平滑な石が畳のように敷き 詰められて広がる自然海岸。 〓沖縄本島周辺諸島を散策〓 主だったポイントを散策しましよう! 下記のポイントが映像からご覧になれます。 ※本島周辺諸島のビユーポイント 1.五枝の松 2.上江洲家 3.畳石 4.念頭平松 5.クマヤ洞窟 6.久葉山 7.大東神社 8.星野洞 9.大池 10.高倉家 11.赤間山立火所跡 |
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◇本島周辺諸島散策 |
尖閣諸島 |
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【 美ら島沖縄 】 『 沖縄本島 』を散策しましょう。 〓沖縄県の圏域〓 沖縄県は東西→約1,000km、南北→約400kmの広大な圏域。 49の有人島と111の無人島及び岩礁が点在する島嶼である。 (0.01km²以上の面積を有する島及び岩礁をカウント) 有人島では 北端→伊平屋島、南端→波照間島 東端→北大東島、 西端→与那国島が位置する。 波照間島は 有人島での日本最南端与那国島は日本最西端である。 ※群島構成 北東から南西方向に島々が点在してのびる。 それらは次の六区分の囲みで呼称される。 ①沖縄本島 ②沖縄本島周辺諸島 ③大東諸島 ④宮古諸島 ⑤八重山諸島 ⑥尖閣諸島 ※参照 沖縄県圏域概図 〓沖縄本島の地域区分と帰属市町村〓 沖縄本島は三区分されて呼称される。 ①南部地域 ②中部地域 ③北部地域 ※南部地域と帰属市町村 那覇市 豊見城市 糸満市 南城市 与那原町 南風原町 八重瀬町の4市・3町がある。 南部地域総面積197km²、人口約53万人 通常「南部地域」と呼ぶ場合は那覇市を除いて指す。 別称で島尻(しまじり)地区とも云う。 この地域には県都:那覇市がある。 第二次世界大戦で日本軍は首里城に軍司令部を置いた。 沖縄本島に上陸したアメリカ軍は凄まじい砲撃と空襲を加えな がら首里城方面へ進攻した。 首里城は壮絶な地上戦での戦火を受けて灰と化した。 戦闘は那覇市街地の九割を焼失させて壊滅状態にした。 一般市民も防衛隊を組織して日本軍と共に戦闘に参加し、 多くの命を落とした。焼け野ヶ原にされた那覇市であったが、 今日では県の政治・経済・文化の中核地として再興された。 首里城も復元されて県民の心の拠りどころとなっている。 ※中部地域と帰属市町村 浦添市 宜野湾市 沖縄市 うるま市 読谷村 嘉手納町 北谷町 北中城村 中城村 西原町の4市・3町・3村がある。 中部地域総面積280km²、人口約58万人 別称で中頭(なかがみ)地区とも云う。 米軍基地が最も集中している地域である。 極東最大の空軍基地と云われる嘉手納米軍基地がある。 その施設総面積は約19.95km²に広がり、 嘉手納町・沖縄市・北谷町の3市町にまたがる。 規模からして東京・羽田空港の約2倍とも云われる。 基地内には約3,500m滑走路2本を備えた軍用飛行場がある。 最近の動向は東シナ海や北朝鮮情勢が穏やかでない故か、 偵察機などの離着陸が騒々しい状況である。 沖縄市はコザの名称で親しまれていた。 1974年に名称変更した。 且つては基地の街コザのタウンイメージがあった。 それこそ街の表情が夜と昼では反転状態を映じていた。 1975年まで続いたベトナム戦争の期には、米軍人・軍属 のみでなく、東南アジアや諸外国の商人達が通りを闊歩していた。 ※北部地域と帰属市町村 名護市 恩納村 宜野座村 金武町 今帰仁村 本部町 国頭村 大宜味村 東村の1市・2町・6村がある。 北部地域総面積764km²、人口約12万人 別称で国頭(くにがみ)地区とも云う。 地域の中央を山峰が走り自然と水源地に恵まれている。 その昔は北部全地域を指して山原(ヤンバル)と称した。 時代の流れとともに都市化現象が進んで、 今日では国頭村 東村 大宜味村を指して称される。 この地域の森には貴重で稀少な動植物が多く生息している。 多種多様な生物種を擁するところから 東洋のガラパゴスとも 称される。 恩納村から名護市に至る西海浜沿いには大型リゾート施設が 数々建立している。 2000年7月に催行された九州沖縄サミットG8首脳会合会場 となった万国津梁館がある。 〓沖縄本島を散策〓 本島を南から北へ主だったポイントを散策しましよう! 下記のポイントが映像からご覧になれます。 ※南部地域のビユーポイント 1.首里城 2.国際通り 3.牧志公設市場 4.平和の礎 5.垣花樋川 6.斎場御嶽 7.首里城 新春の宴 8.糸満ハ-リ- ※中部地域のビユーポイント 1.中城城跡 2.ゲ-ト通り 3.アメリカンビレッジ 4.やちむんの里 5.残波岬 6.全島闘牛大会 7.沖縄全島エイサ-大会 ※北部地域のビユーポイント 1.沖縄美ら海水族館 2.今帰仁城跡 3.比謝大滝 4.慶佐次湾のヒルギ林 5.辺戸岬 6.ピ-ジャ-オ-ラセ- 7.塩屋のウンガミ |
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◇南部地区散策 | ◇中部地区散策 | ◇北部地区散策 |
美ら島沖縄 |
( 画像;カクレクマノミ ) |
【 サンゴ礁の島々 】 『 サンゴ礁 』を見聞しましょう。 〓沖縄諸島の沿革〓 沖縄諸島は我が国の最南端及び最西端に広がる。 東西約1,000km、南北約400kmの広大な圏域を成す。 域内には160余もの島や岩礁が点在する島嶼である。 最も大きな島は沖縄本島で、次に西表島、石垣島 宮古島・・・である。 ※圏域の緯度範囲 有人島(49島)でみた場合の範囲は次の通りである。 北端⇒伊平屋島 N=27°05’32” E=128°01’20” 南端⇒波照間島 N=24°02’28” E=123°47’33” 東端⇒北大東島 N=25°56’51” E=131°20’08” 西端⇒与那国島 N=24°26’42” E=122°56’08” 全域的に北緯:24°~27°東経:122°~131°の範囲。 有人島の最南端は波照間島、最西端は与那国島である。 つまり、我が国の最南端及び最西端の陸海域である。 ※気候 日本で唯一の亜熱帯海洋性気候に属する。 年平均気温 23℃である。 最低気温が10℃以下になることは稀である。 年間降水量約2,000mmは全国平均約1,620mmより多い。 季節を通して温度差が小さいので平準的に温暖な気候。 〓サンゴ礁の渚 広大な海域に点在する殆どの島々は、その周囲をサンゴ礁 で帯状に囲まれている。 隆起サンゴ礁で造成されている島々が殆どである。 長年のサンゴ造礁に因って形成された白砂の磯辺である。 異なったところでは、険しい断崖絶壁の伸びた与那国島や 熱帯林の繁る西表島、石垣島は火山島との説もある。 ※エメラルドグリーンの海原 降り注ぐ光で燦々と輝く海面下には、赤 青 緑 ピンク 紫など に彩るサンゴが揺らいでいる。 サンゴの周りには色鮮やかな数々の熱帯魚達が遊泳している。 世界の海には約800種もの色 形 生態の異なるサンゴが生息 しているそうです。 うち、約400種のサンゴが沖縄海域に生息していると云われる。 多種のサンゴが生息している姿は【海の花園】とも云えよう。 〓サンゴの生態 サンゴは刺胞動物の一種であり、クラゲやイソギンチャクの 仲間だそうです。 サンゴの死骸によって造られた岩礁のことをサンゴ礁と称 するそうです。 長い歳月を経て海底に堆積したサンゴ礁が大規模な岩層を 形成する。 その岩層が漸次堆積して隆起岩となり、やがて は海面上に姿を現わす。 沖縄近海で造礁される岩層を琉球石灰岩と称している。 ※サンゴ礁のスタイル サンゴ礁は基本的に3つの造形を成す。 ①裾礁(きょしょう);島の周りを帯状に伸びて造礁される形 ②堡礁(ほしょう) ;島から遠く離れて造礁される形 ③環礁(かんしょう);広いサンゴ礁の内側が水没して環状 になった礁湖 ※サンゴの生育環境 サンゴ礁は暖かい海の浅い場所で観られるそうです。 生育には太陽光を要するので透明度良好で光の届く場所 が適しているそうです。 水深100m以上の深場では殆ど生息できないそうです。 沖縄近海は1~2月の寒い季節でも海水温19℃である。 年間を通して温暖で磯辺は浅瀬の広がりになっている。 それがサンゴの生育条件として最適だそうです。 地球的分布状態からして、沖縄近海のサンゴ礁は北端に 位置しているそうです。 ※台風がサンゴ生育に果たす役割 夏の季節を迎える沖縄は台風の常襲地帯です。 台風時の海は荒れ狂います。 その自然現象が海水を満遍なく掻き回して水温を一定に 保つそうです。更にサンゴに付着する不純物や排泄物な どをも洗浄してくれるそうです。 ところが、大型台風だとサンゴ破壊を引き起こす危険状況 も生じます。 〓人間がサンゴ礁から授かる恩恵 ダイバーや漁師達ばかりではなく、海と縁遠く暮らす人達も サンゴ礁から多少なりの恩恵を授かっている。 ・サンゴ礁は色鮮やかな熱帯魚と共生している。 その隙間がプランクトンの隠れ場になっているので大きな 魚達が寄ってくる。 ・白い砂はサンゴ死骸が波浪に因って細粒子化した物です。 ・サンゴ礁の外側は急傾斜な深海に成っている。 それが台風時に起こる激しい波浪を弱める効果にある。 つまり、天然防波堤としての防災機能を果たしている。 ・サンゴ礁は、建築用造作物の素材として活用される。 沖縄の街道には石積みの屋敷囲いを見かける。 その素材はサンゴからできた琉球石灰岩です。 近年では板状加工にして建物 壁 装飾 描画などの素材と して用途が拡がっている。 ・指輪 イヤリング 帯止メなどの装飾品類も多様にある。 ・サンゴにはカルシゥム分など多くの栄養素を含有する。 健康食品化(サプリメント)して製造販売されている。 ・作物栽培でも高効能有機肥料として活用が拡がっている。 このようにサンゴは衣 食 住の中で多用途化されている。 沖縄のサンゴを守ろう運動が広く取り組まれています。 サンゴの大敵はオニヒトデだそうです。 オニヒトデの好物はサンゴだそうです。 食いちぎって白骨化にしてしまうそうです。 |
海を汚さないで! サンゴ を守ろう! |
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◇サンゴの海(1) | ◇サンゴの海(2) |
沖縄諸島の海 |
( 画像;日本最西端の碑 ) |
【 沖縄の離島 】 『 与那国島 』を見聞しましょう。 〓与那国島の位置〓 与那国島(よなぐに/面積;28.91k㎡ 人口;1,650人余)は 沖縄本島(那覇市)から南西方約520km、石垣島から西方 約124kmに位置する。石垣島間を空路で所要時間30分。 台湾までの距離が直線で約110kmの至近にある。 年に幾度かは水平線の彼方に台湾連峰の姿が眺望できる。 日常的には四方に島影を見ることのない絶海の孤島である。 日本最西端に佇む島 Yonaguni island is Keywest of japan. ※参照 沖縄諸島沿革図 〓与那国島の沿革 亜熱帯海洋性気候 年平均気温23.9℃ 年間降水量3,000mm 島の中央を東西に山峰が走って緑豊かな景観を呈している。 全周27.49kmの小島ながらも山,谷,川が連座した地勢である。 集落は祖納(そない),比川(ひがわ),久部良(くぶら)の3村。 簡易水道施設が整備されて枯水に因る断水は無い。 水源地は山裾からの湧水が豊富である。 それを簡易堤敷設の浄配水処理施設で対処している。 ところが、数年に1回程は配水ストップに遭遇する。 集中豪雨に遭った時である。 浄水能力負荷状態となって断水措置を執る。 基幹産業は黒糖生産、水稲、酪農、漁業、観光など。 水田地帯が少ない沖縄県内にあって貴重な水稲作である。 〓与那国島の地理的特異性 海岸線は高さ50~80m程の険しい海触崖が続いている。 断崖絶壁の岩肌に寄せくる黒潮が激しい波濤を呈する。 ところが、海辺の背に広がる平地は、自然のコウライ芝生が 緑の絨毯を敷いた如くに美しく展がる。 島の中央を走る山峰の東側には、円錐形状の宇良部岳 (標高:231m)が聳えている。「与那国富士」とも云われる。 その山頂から眺める海原は、360度に周る水平線の描写が 眺望者の眼を捉えて離さない。 別界の環海である。 〓与那国島を散策する ★国際カジキ釣り大会 毎年7月に【 国際カジキ釣り大会 】が開催される。 沖合いは黒潮暖流が北東方向へ転換する折角に当たる。 それ故に魚の溜まる近海である。 大会は、磯釣り/沖釣り/トローリングの3部門で3日間に 亘って競う。 1尾当たり 300kg級以上のカジキ釣果が出る。 ※関連サイト→ カジキ釣り大会 ★与那国島のポニーちゃん ポニーではないです。 純粋な在来和種馬である。 日本在来馬は8種が現存しているそうです。 そのうちの1種が「与那国馬」だそうです。 体高は120cm程の小柄で愛らしい馬です。 性格は温厚で力持ち、しかも人懐こいので 子供達からポニー。。ポニ~と呼ばれている。 種の混ざりがない純粋な在来和種馬であることから 希少種の保存として与那国町は天然記念物に指定した。 ※関連サイト→ 与那国馬ふれあい牧場 ★与那国島に羽ばたく 巨大な蛾 羽を広げると24cm程もあるチョウ(蛾)が生息している。 世界最大の大きさを誇る「ヨナグニサン」です。 方言名:アヤミハビル(アヤミ:模様 ハビル:蝶)ヤママユガ科 同類のチョウはインド、ヒマラヤ、インドシナ地域に生息して いるそうです。その分布北限が隣りの西表島だそうです。 西表島での生息数は稀にしか目視できてないそうです。 与那国島で初めて発見された事から「和名:ヨナグニサン」と 付けられたそうです。 以前は剥製にするなど乱獲ぎみであったが近年では捕獲禁止 になった。 沖縄県は天然記念物に指定し絶滅危惧種として 保護に務めている。 与那国町は「孵化施設」を備えるなどして 保全・育成に務めている。 ※関連サイト→ アヤミハビル館 ★与那国島に眠る海底遺跡(?) 断崖絶壁に切り立った岩場から程近い海底に、人工成形された かの如き巨大な石造物が存在している。 1986年にダイビングポイント探索中のダイバーによって発見さ れた海底の異物である。 その話題が世界中の学者・研究者達の注目を集めた。 石物は「人工遺跡か否か」の論理検証が活発である。 仮に人工遺跡であるとなれば、沖縄諸島、いや日本列島誕生 の科学史に大きな一石を投じる事になるそうです。 お魚達に戯られながら静かに眠り続けてきた「謎の石物」の 今日は、訪れる多くの観光客達にも戯られる羽目になった。 ※「謎の石物」の映像は下記バナーからご覧になれます。 その「古代石物」が地上の話題に挙がるようになった契機は、 島内の観光商品造作に勤しむ方々の働きに起因する。 島では官民協調で観光客誘致の諸策推進に懸命である。 ネットの海外サイトで「Yonaguni Island」を検索したらば 「与那国島海底遺跡に係る記述」が必ずや検出される。 与那国島はTVドラマ「Dr.コトー ;志木那島診療所」の ロケ地でもある。 自然景観に浸るも好い島ですが、 固有の動植物達を訪ね歩くにも興味をそそる島である。 |
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◇与那国島海底遺跡(1) | ◇与那国島海底遺跡(2) |
与那国島 |
( 画像;竹富島の村落 ) |
【 沖縄の離島 】 『 竹富島 』を見聞しましょう。 〓竹富島〓 竹富島(たけとみ/面積;5.42k㎡人口;330人余)は 沖縄本島(那覇市)から南西方向約417kmに位置する。 輪郭は周囲;9.2km/標高;21mの円形状で平坦地である。 交通アクセスは石垣島から約5.7kmの海上を高速フェリーが 頻繁に航行している。(所要;10分) 行政管区は竹富町役場が管轄する。 ◆竹富町の管轄域 竹富町役場が管轄する圏域には10の有人島と2つの無人島 がある。 ≪有人島≫ ・竹富島、西表島、由布島、小浜島、黒島、波照間島、鳩間島 嘉弥真島、新城島(上地)、新城島(下地) ≪無人島≫ ・内離島、外離島 ※参照 沖縄諸島沿革図 有人島に限れば 町管轄域は総面積:330.16K㎡ 総人口:4,100人余ある。 群成する島々は夫々に自然的文化的な特異性を持っている。 なかでも、西表島は最も特異性に富む島である。 沖縄本島に次いで広大な面積(289.27K㎡)を有すも、 その90%は亜熱帯の原生林で覆われている。 山腹が海岸沿いの間際まで迫っている状態が殆どであり、 平地状の箇所は僅かである。 その狭い空間を活用して 1,194世帯2,300人余が暮らしている。 竹富圏域の島々が発祥の地と伝わる琉球染織物の「絣」や 焼物の「パナリ焼」などはよく知られている。 また、古代の庶民生活を詠った民謡や舞踊の演目曲目が数多 く現存している地域である。 琉球舞踊や民謡の分野では古琉球の文化遺産とされる。 古代史における琉球各地の統治は、地方豪族達による群雄割 拠の時代が続いた。 豪族権力の離合集散が繰り返されて不安定状態にあった。 15世紀初頭になって豪族;尚 巴志が各地の豪族を平定し 統一琉球王國を創設した。 そして王朝制を敷設して首里城を王府とした。 統一琉球王國初代王には尚 巴志が就任(1429年)した。 ところが、八重山や宮古諸島までは未統括状態にあった。 9代目国王:尚 真(1477年即位)になって八重山・宮古諸島の 平定を成し、ここで初めて首里王庁を頂点とする中央集権国家 の確立に成功した。 以後の八重山諸島を管轄する役所は竹富島に置かれた。 当時の役所「蔵元」跡が今も残っている。 竹富島には古琉球の文化史跡や資料が数多く現存する。 ★竹富町圏域のアクセス 少ない人口の島々で構成される行政管区である故、役場本庁 舎は石垣市に建立している。 各島々間のアクセスは高速フェリーが頻繁に往来している。 フェリーは石垣港をハブセンターとして島々を往来している。 日常品などのお買物の殆どを石垣島で購入する状態である。 ※役場本庁に勤務する職員の殆どが石垣市に住所登録しているため、 竹富町が執行する選挙の投票権が無いそうです。 ★伝統的建造物群保存地区に選定された竹富島の集落 竹富島の町並景観はサンゴ礁の石積垣と赤瓦の甍が連なり、 白砂で敷きつめられた道の沿いにはブーゲンビレアが咲きゆれ 散策すがらに心の和を覚える。 老人会がボランティア活動で率先的に毎朝の街路掃除を行って いる。 白砂の道の毎日が、チリひとつ無く色々な花が咲きゆれ るプロムナードです。 住民達は古き好き町並みを残す活動に一生懸命である。 役場は集落全体を町並み保存地区に指定している。 国からの【重要伝統的建造物群保存地区】に選定された。 ★竹富島の海浜 浅瀬に囲まれた竹富島にはコンドイ浜、カイジ浜や星砂の浜 などエメラルドグリーンの海原が広がる海辺がある。 四方は西表島 小浜島 黒島や石垣島の島影が眺望できる。 赤瓦の甍、白砂の道、サンゴ礁の垣根が連なり、 亜熱帯の花々が和やかに戯れる。 星砂の煌めく海辺は美しく広がるエメラルドグリーンの海原。 訪れる人々に心地よい涼風をそそいでくれる。 ※参照 竹富島のビーチ一覧にリンク ●注目したい島 ☆由布島(ゆふ/面積;0.15k㎡ 人口;17人)は 西表島南海岸から約1kmの沖合いにある。 マンゴー栽培が盛んな海抜1.5mの小島。 西表島に隣接する海は遠浅が広がり、満潮時でも水深1m ほどしかない。 その間を水牛車に揺られて楽しむ水牛車観光は知られる。 ☆波照間島(はてるま/面積;12.77k㎡ 人口;560人余)は 日本最南端に位置する。 南十字星などを望遠する国立の「星空観測タワー」がある。 |
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◇竹富島 |
竹富島 |
東京ディズニーシー で 楽しもう! |
夏休みは楽しい思い出がいっぱい。 海、山、川へご家族やお友達と一緒に出かけたり 故郷に帰って知人・友人と語り合ったり 趣味の探求に一生懸命に邁進したり。 東京ディズニーランドへは行かれたでしょうか? ディズニーパークには何時間いても楽しいですね。 Webから東京ディズニーシーを楽しみましょう。 |
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テーマパーク,東京ディズニーシーライブ |
( 画像;伊良部島/渡口の浜 ) |
【 沖縄の離島 】 『 伊良部島 』を見聞しましょう。 ★宮古諸島の沿革 沖縄本島(那覇市)の南西方向約300km 石垣島の東北東方向約133㎞に位置する。 宮古諸島は8つの有人島から成っている。 宮古島 ・池間島 ・大神島 ・来間島 ・伊良部島 ・下地島 多良間島・水納島。 圏域の中核は宮古島である。 これらの島々の大方は橋で連結されている。 宮古島と池間島(橋長:1,425m)及び来間島(橋長:1,690m) は連結済。 伊良部島と下地島は(区間距離;150m)数基の橋で連結済。 宮古島と伊良部島は、2012年度架橋(橋長:3,540m)に向け て施工中である。 現在は小型フェリーが日に10往復(片道所要時間:10分)運行 している。 近い将来の諸島群は実質4つの島で形成されるようになる。 大神島(おおがみ/面積;0.24k㎡人口;35人)は 宮古島の北東方向約4㎞ 周囲約2.75kmの小島 交通アクセスは宮古島から小型船で約15分にある。 ミステリーの島として小説やエッセイなどでよく採り上げられる。 多良間島(たらま/面積;19.75k㎡人口;1,300人余)は 宮古島の南西方向約67㎞ 石垣島の東北東方向約35㎞に 位置する。 宮古島からの交通アクセスは双発プロペラ機で25分である。 多良間島の北方向約8㎞に水納島(みんな/面積;2.15k㎡ 人口;5人)がある。 交通アクセスは多良間島から高速船チャーターで約25分。 これらの群島に概して共通している事象は、山も川も無い平坦 地である。それと毒蛇ハブが生息していないことである。 〓伊良部島〓 伊良部島(いらぶ/面積;29.08k㎡人口;6,200人余)は 宮古島と隣接の距離(区間;7.3㎞)に位置している。 行政主管は伊良部町役場であったが、平成17年10月に近隣 市町村との合併をもって「宮古島市」と行政呼称変更になった。 合併自治体:平良市、城辺町、下地町、上野村、伊良部町 基幹産業は農業水産業である。 サトウキビ栽培・葉タバコ栽や果樹栽培である。 カツオ漁が盛んであり「伊良部鰹節」は知られている。 伊良部島の漁師達は30トン程の船団で、遠く南洋諸島近海に 出向いて操業する。 団員の幾人かを南洋諸島の現地から雇用する。 船内でのコミュニケーションは専ら「伊良部方言」で交わすの で、雇用された船員達は「伊良部方言を日本語である」と思い込 んでいたと云う実話の笑い話がある。 ※下地島パイロット訓練飛行場 我国唯一の民間旅客機パイロット訓練場(滑走路;3,000m)が ある。 昭和40年代の石油ショック襲来の時、それまで米国で 行われていた民間パイロット訓練を国内で施す目的で施行され た。 現在でも主にJALやANAの大型ジェット機が繰り返し行う タッチアンドゴーの訓練状況を間近に見ることができる。 ◆伊良部島の名所 コーラル海浜に囲まれたアイランドには自然が織り成す名所が 数多くある。 ≪渡口の浜≫ ・長さ800m、幅50mにわたって細かい白砂が広がる。 ≪佐和田の浜≫ ・遠浅の静かな海に点在する大小の岩が特異な風景を醸す。 岩のひとつひとつに名称が付けられてある。 ・遠浅の干潟に珊瑚石を積み上げて置き、満潮時に入ってきた 魚が干潮時に取り残されたところを捕獲する独特の漁法 「魚垣:カツ」の状景を観る事ができる。 ・この海浜は平成8年に【日本の渚百選】に選ばれた。 ≪サバ沖井戸≫ ・磯辺の断崖下に飲料水用の井戸がある。 その井戸には120段の石敷階段を下って辿り着く。 飲料用水源に乏しかった島にとって、昭和41年に簡易水道が 布設されるまでの貴重な水資源であった。 日に3~4回もその井戸から水汲するのが女性達の日課だった そうです。 ≪通り池≫ ・底が海に通じている陸内の自然池 ・池の大きさは【径約75m、水深45m】と【径55m、水深約25 m】の2基がある。 池の底には径約10mのトンネル型洞窟があって、そこを潜れ ば外海面に浮上することができる。 ・淡水と海水の水質と温度差が作り出すサーモクラインと呼ば れる水中の現象は、刻々とその色を変化させる不思議な光景と 伝えられる。 種々な神話をもつ神秘的な自然造形である。 ・ダイバー達にとっては魅力的なポイントとして知られている。 |
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◇伊良部島 |
伊良部島 |