( 画像;伊是名島の磯辺 ) |
【 沖縄の離島 】 『 伊是名島 』を見聞しましょう。 〓伊是名島〓 伊是名島(いぜな/面積;14.14k㎡人口;1,900人余)は 沖縄本島(那覇市)の北西方約95kmの東シナ海に位置する。 周囲16.7kmの島です。 沖縄本島との海上交通アクセスは本島北部域にある運天港 (今帰仁村)とのネットワークである。 区間距離約29kmを約55分の航路である。 伊是名村役場が管轄する圏域内には、近場の具志川島、 屋那覇島、降神島の3つの無人島がある。 ★伊平屋島 伊平屋島(いへや/面積;20.64k㎡人口;1,700人余)は、 伊是名島の北北東方約8kmにある。 周囲が約34.23kmで沖縄県最北端の有人島である。 地元では伊是名島を「前島」伊平屋島を「後島」と称し、歴史的 に兄弟島として歩んできている。 その昔は1つの役場で両島を管轄していたが、交通アクセスが 住民の不利不便を抱える事になって1939年に分村した。 ◆伊是名島の産業 基幹産業は農・水産業である。 主な農作物は、サトウキビ栽培の他、メロン、スイカ、マンゴー の果樹ハウス栽培や菊などの花奔栽培が主である。 水産業では浅瀬リーフを活用したモズク養殖が盛んに行われ、 特産品として定着している。 周辺の無人島は、屋外キャンプ地、ダイビングや釣りのメッカと して知られている。 〓伊是名島は琉球王統ゆかりの地〓 「琉球王國」は、1429年に創建されて廃藩置県が実施される 1879年までの約450年間にもわたる王統治世であった。 初代國王;尚 巴志から最後の25代目國王;尚 泰までが尚家 の名代をもって王位継承された。 首里城を王府とした治世が続くことになる。 尚家の姻戚関係者によって王位継承を施すことで平安の続い た治世であったが、5代目継承をめぐって内紛が起きた。 そのしこりが後々まで尾を引き、尚王家は急速に弱体化した。 そこに乗じて登場したのが、豪族「金丸」であった。 金丸は王家の内紛につけ入り、クーデターによって政権を奪取 した。 そして、第7代目琉球國王;尚 円(しょうえん)として即位 した。(1469年) 金丸は尚王家とは血縁関係の無い地方出の豪族であった。 金丸の生誕の地が伊是名島である。 伊是名島は琉球王ゆかりの地であり、悠久の歴史と伝説が 息づく島である。 歴史的に貴重な旧跡や名所が多く残っている。 村では尚円王生家周辺を「尚円王御庭公園」として整備し、 そこでは子供達が元気に走り回っている。 =====琉球王國と王統のあらまし===== 14世紀後半までの琉球は、幾多もの豪族が勢力争いを繰り返しながら 領域を分割統治する群雄割拠の時代であった。 15世紀初頭、豪族;尚巴志(しょうはっし)が登場して主要な勢力を 統括し琉球で初めての「統一権力」を確立した。 尚巴志は王朝制を布設して、初代琉球國王に即位した。(1429年即位) 王府を首里城に構えて、尚家を頂天とする平安な治世を続けることになる。 ところが、5代目の王位継承をめぐって尚家に内紛が起きた。 争いの末、5代目國王に尚泰久が即位するも(1453年)政権は短命に 終わった。 その争いのしこりが後々まで残った。 6代目國王;尚徳(1460年即位)の代には王府組織の弱体化が一層 顕著になった。 そこに乗じて登場したのが、地方出の豪族「金丸」で あった。 金丸は王家の内紛につけ入るクーデターによって政権を奪取した。 そして、第7代目琉球國王として即位した。(1469年) 金丸は尚家とは血縁関係の無い地方豪族であったが、尚家を継承する ことにして、自らを7代目國王;尚円(しょうえん)と名乗った。 政治的には、従来の王統が進めてきた諸施策を変えることなく継承した。 首里城を拠点とする王朝体制を堅持した。 以後の琉球國王は、金丸の関係者によって継承された。 7代目國王;尚円から数えて25代目國王;尚泰(1848年 - 1879年) までの約409年間続くことになる。 1871年には、明治政府が施行した廃藩置県施策によって「琉球王國」は 日本国内の藩の一つに位置づけされた。 まもなくの1879年(明治12年)に、「琉球王國」は「沖縄県」となった。 琉球國の終焉まで、王統は尚家の名代のもとに治世をとり持った。 琉球王朝を綴る歴史書では 初代琉球國王;尚巴志(1429年即位)から 6代目琉球國王;尚徳(1469年即位)までを【第一尚氏王統】 7代目琉球國王;尚円(1469年即位)から 25代目琉球國王;尚泰(1848年即位)までを【第二尚氏王統】 と時代呼称している。 |
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◇伊是名島 |
伊是名島 |